鎖を解かれたメテウス

映画とか海外ドラマの感想を吐き出すブログ。たまにゲーム

『アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン』感想

※ネタバレあり

 

◆トニー・スタークあるいは現代のプロメテウス?

 トニー・スターク、そしてウルトロンとヴィジョンの関係は、メアリ・シェリーの小説『フランケンシュタイン』における主人公ヴィクター・フランケンシュタインと彼の被造物である“怪物”に呼応する。怪物はフランケンシュタインの自己の一部、負の性質の具現化であり、この2人は互いに憎み嫌悪し合いながらも、行動や心理の端々には似通った部分がある。

 同じようにウルトロンも、度々トニーそっくりの軽妙軽薄な語り口を披露している。まったく同じセリフを喋り、そのことを指摘されると同族嫌悪からか激しい怒りをあらわにもした。また、創造主と被造物の目的の根幹が同じである点も興味深い。ウルトロンはアベンジャーズこそ世界の敵なので消すべきと考え、一方のトニーはアベンジャーズの必要ない平和な世界を望んでいる。どちらも結果的に望んでいるのはアベンジャーズのいない(いなくてもいい)世界なのだが、手段が噛み合わないのだ。

 

 小説『フランケンシュタイン』には「あるいは現代のプロメテウス」という副題がついているが、このプロメテウスとは、ギリシャ神話において天上の火を盗んで罰を受けた英雄にして「反逆者」の原型でもある神だ。そしてオイディウスの『変身物語』においては、粘土から最初の人間を創り出した「創造者」の原型でもある。

 フランケンシュタインがそうであったように、トニー・スタークもまた、「自身の発明によって人類に恩恵がもたらされるであろう」という英雄的精神でもって新たな生命を生み出したことにより、自身の望むものとは真逆の結果を得、大いに苦しむことになる。『エイジ・オブ・ウルトロン』はこのように、神話的要素の強い作品となっている。

 そして、小説に則れば、創造主の悪の面だけが創造物に反映されそうなものだが、『エイジ・オブ・ウルトロン』では創造物すら善(ヴィジョン)と悪(ウルトロン)に分けて描かれたあたりヒネリがきいている、といえるのだろうか。

 NHK「100分de名著」シリーズの『フランケンシュタイン』のテキストの中で、解説者の廣野教授はヴィクター・フランケンシュタインに関し、

“(彼は)「英雄」の名にふさわしい人物なのでしょうか?・・・彼は偉業を成したというより、自分で世界に持ち込んだ「怪物の種」という新たな災いを根絶することにのみ、自らの命を無駄に使い果たしたに過ぎないのです。・・・無から有を生み出す試みは、結果的には、より多くの死をもたらし、幸福よりも不幸を招くことになりました”

 と述べている。これは今のところの、トニーの成したことに対する私の印象と同じである。ここからどう挽回していくのかによって、私の中での評価も変わることだろう(変わってくれなければ困る)。

 

◆不満点

 前作以上に登場キャラクターが増えた状態で、メインストーリーを進めつつそれぞれに見せ場もつくり、かつ次のMCU系列作品につなげるための伏線も張らなければならない・・・ということで、映画一本の中にとにかく情報を詰め込まなければいけなかったことは伝わってきた。それがどんなに大変なことであったかも推して知るべしだ。

 しかし正直なところ、私はこの作品を面白いとは思わなかった。というより、今作の内容がこれ以降のMCU関連にどのような影響を及ぼすのかを見届けない限りは、判断のくだしようがないと思っている。

 そのため、今作への私の不満点は(現時点では)ひとつだけなのだが、そのたった一点でこの映画、ひいてはアベンジャーズというものへの熱が冷めかけたことは言っておきたい。

 

 その一点とは、今作におけるナターシャ・ロマノフの恋愛描写だ。

 別に彼女が恋愛をしたことに不満があるのではない。トニーにもスティーブにも想い人はいるし、今回明らかになったようにバートンも家庭を持っている。そうなれば、残った二人がくっつくのはわからなくはない。しかしそれならば、これまでの作品のどこかで伏線を張っておくなどして、これが自然な流れだと思わせてほしかったのだ。今作で唐突に「お似合いだよ」「二人の関係に気付いてなかったの?」と取ってつけたように言われても、“言わされている”という違和感の方が勝ってしまう。きわめつけはナターシャの谷間にバナーが顔を突っ込むシーンで、あれには失笑を通り越して背筋が寒くなった。

 『キャプテン・アメリカ:ウィンターソルジャー』で、ナターシャは中盤「シールドに入れば自分は変われると思った。でも戦う相手が変わっただけなのかも」と不安を口にする。しかし終盤では、「確かに私たちは世界の危機を招いた。でもそれ(世界)を守れるのも私たちだけ。だから自分は逃げも隠れもしない」と、堂々と宣言する。

 そんな彼女が、『エイジ・オブ・ウルトロン』ではバナー博士に、一緒に逃避行しようとせがむ。逃げも隠れもしないと宣言した彼女が、である。これにはひどく悲しくなった。バナーとナターシャに本気の恋愛をさせるという流れの中で、ナターシャをフィクションにありがちな、ステレオタイプの「女」の枠にはめこみ、これまたステレオタイプなセリフを言わせたことで、彼女の人間性が犠牲になったように思えたのだ。それだけはどうしても納得がいきそうにない。

 また、日本公開前にクリス・エヴァンスとジェレミー・レナーが今作のプロモーションツアーの最中に、ナターシャを「アバズレ」「完璧な娼婦」であると発言したという記事(ニュース:『アベンジャーズ』クリス・エヴァンスとジェレミー・レナー、ブラック・ウィドウを「アバズレ」と呼んで問題に! | 海外ドラマNAVI)を見てとても悲しくなったのだが、本作を観た後ではそんな発言をする人が出てきてもおかしくないと思え(だからといってこの発言を許せるわけではないが)、余計に辛い気持ちになった。

 

 こういう理由からアベンジャーズへの熱が引いてしまい、次の『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』は観に行かないかもしれないと思っていたのだが、エンドクレジット中に『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の敵役サノスが現れ、次作に登場すること示唆してきたので、GotGが好きな私は観に行かざるを得ない。

 また、日本では9月19日に封切られる『アントマン』の劇中に『キャプテン・アメリカ:シビル・ウォー』に繋がるシーンが含まれているという情報もある。

 不満はあれど、結局MCU作品は全てチェックしなければならないようだし、今作がこれからの作品にどう響いてくるのか、今は見守るしかないようだ。

2014年新作映画個人的ベスト10

【2014年新作映画個人的ベスト10】

それでも夜は明ける

ウォルト・ディズニーの約束

キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー

グランド・ブダペスト・ホテル

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー

猿の惑星:新世紀

リアリティのダンス

プリズナーズ

インターステラー

誰よりも狙われた男

 

 観た順に並べました。特に順位とかはつけません、というかつけられない。以下は各作品に対する雑感です。

 

それでも夜は明ける 

 “人はどこまで残酷になれるのかという疑問と、どこまでもという答え”という文句が、この作品が収録されたスティーヴ・マックィーン BOX付録のブックレットに書かれてあったのが印象的。その疑問と、それに対する(解決には決してならない)答えとを静かに淡々と見せるのがスティーヴ・マックィーンという監督の作品に共通する精神なのだと私は考えている。そのため、作中の人物たちがどんなに酷い目に遭おうとも、どんなに残虐な行為をしようとも、過度に同情を誘うこともなければ怒りも沸かない。ドキュメンタリー作品でさえ製作者の「これを見て、こういう気持ちになってほしい」という思いが伝わってくることが多いが、マックィーン監督の作品にはそういった「用意された模範回答」というものが存在しないように感じるのだ。共感することで見えるものもあるが、逆に距離を置くことで見えるものもまた多く、彼の作品は後者に属するものなのだろうと思う。

 

ウォルト・ディズニーの約束

 名作『メリー・ポピンズ』の原作者P.L.トラヴァースの、作品を書くに至った子供時代の記憶についての物語。今年は『アナと雪の女王』『マレフィセント』とディズニーが過去世に出してきたおとぎ話の価値観を大幅に更新・語り直す作業が行われていたが、この映画はその「おとぎ話の紡ぎ手」側の秘めた心情を明かす。過去の思い出を幸せなものとしたかった切望と現実の溝の深さに泣かずにはいられない。親という生き物との向き合い方がわからない私にはとても痛い映画だった。

 

キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー

 大戦が終結し、9.11で自国の大義たる正義の全能感・絶対的な自信も崩落した今日のアメリカにおいて、戦争のヒーローたる「キャプテン・アメリカ」という存在は時代遅れの道化でしかない。そう思っていたが、この作品の出来はどうだろう。前作『ファースト・アベンジャー』の要素を巧みに利用し、アップデートされてもなお変わらない今作におけるスティーヴ・ロジャースの示す正義のあり方は、とても正しいものだと、信じたいと思わされる。

 

グランド・ブダペスト・ホテル

 ウェス・アンダーソン監督の作品はますます彼らしさに磨きがかっていっている。計算しつくされたコミカルな挙動、美術、物語、どれをとっても彼以外には作れない唯一無二のものだ。私は彼の作品に対してあまり語れる言葉がない(それより観てもらった方が早いしわかりやすいだろうと思う)が、本当に好きな作品。

 

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー

 以前記事を書いていたので感想はこちらで→『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』感想 

 

猿の惑星:新世紀(ライジング)

 今作の監督マット・リーヴスは『クローバーフィールド/HAKAISHA』の監督ということもあり、ここぞというところで使われる一人称視点のカメラが高揚感を引き上げる。人間に近づく際に、人間的知性を得る前に仕込まれたであろう「人間の喜ぶ芸」を使い、また人間が去った瞬間に憎悪の表情に切り替わるコバに圧倒された。今作はシーザーとコバによる、聖書における人間が初めて犯す罪、兄弟殺しの物語であり、カインとアベルの物語を社会形成をして間もない猿に負わせることで、この物語の本質は人間とは異なる猿の話と切り離せるものではなく、どこまでも人間の物語なのだということを思い出させてくれる。

 

『リアリティのダンス』

 ホドロフスキーの作品初鑑賞。色々とビジュアル面でビビらされたが、それでもこの作品の描きたいもの、伝えたいことはわかる。罪と赦しの物語。

 

プリズナーズ

 表面の物語だけならば難解なことはないのだが、キリスト教的モチーフに溢れている作品なので伏線の張り巡らされ方、そして何より最後に「彼」が辿る運命について考えたいことが多く、何度も観返した。信仰のあり方の違いが理屈の違いになる、上質のスリラー。

 

インターステラー

 これも以前記事を書いていたので感想はこちらで→【ネタバレ】『インターステラー』感想―Rage, rage, against the dying of the light

 

誰よりも狙われた男

 今年最後に劇場で観た作品。主人公ギュンター・バッハマンを演じるのは故フィリップ・シーモア・ホフマン。これが彼が主役を務めた最後の映画である。

 バッハマンはドイツのハンブルクでテロ対策チームを率いているスパイで、どうやら過去の失態がもとでこの地に飛ばされたらしい。失墜を経験した為であろう、彼は冗談を飛ばす時でさえ声は乾ききっているし、その目は少しも笑っていない。ただ今向き合っている件の成功だけを優先している。そんな彼が、それまでの濁った目をまるで少年かのようにきらりと幼く光らせる瞬間がある。その一瞬の変化は凄まじいとしか言い様がなく、こんな演技は今まで見たことがないとも思った。故に物語の収束する後半、この先に安堵が待ち受けていると思える淡い希望の感覚を抱けたこと―――そしてそんな希望に物語が与える結末と咆哮は―――誰の目と耳にも焼き付くことだろう。

【ネタバレ】『インターステラー』感想―Rage, rage, against the dying of the light

◆『インターステラー』の世界観

 それはまるで、バベルの塔の崩壊後のよう。高度化の進んだ世界で、暮らしのために必要なものは不足なく揃っているというのに、それでも人間は経済を回すため、自らの欲のため「もっと便利に、もっと先に」と高みを目指して手を伸ばし続ける。そしてついには神(もしくは地球の総意か)の怒りに触れ、地に目を伏せて生きることとなった。再び天を仰がぬように、再び過ぎた企てをせぬように、後は絶望のうちに破滅を迎えよ、と。

 ―――というのが『インターステラー』の世界観なのではと私は考えた。劇中では地球が荒廃した明確な理由は示されていないし、パンフレット記載のクリストファー・ノーランのインタビューにも「地球が荒廃した理由を説明していないのは意図的なこと、観客の想像に任せたかった」というようなことが書いてある。それならばそうしよう、と劇中の風景や人物たちの台詞から想像してみた次第だ。他にも劇中には、キリストの奇跡で死後4日目に復活したとされる「ラザロ」の名を冠した計画があるなど、聖書によっている部分がいくつか見受けられることも私の想像を堅固にする。私以外の観客は、どんな世界だと考えたのだろう?

 

◆停滞するループの先へ

 例外はあるにしろ、「信頼できない語り手」を主人公に据えることで「前進するための行為が実はメビウスの輪のごとく再帰する円環構造」を作り出す、というのがノーラン映画の魅力のひとつであった。しかし『インターステラー』の主人公クーパーは、『メメント』『インセプション』などの主人公たちと同じように利己的な面はあるものの、「信頼できない語り手」ではない。では誰がその役目を担っているのか?

 ―――なんと、今回は『ダークナイト・トリロジー』で実直な執事を演じたマイケル・ケイン(ブランド教授)。とは言っても、『プレステージ』の時に彼が演じた役のような、単純に邪悪な人物としては描かれてはいなかったと私は思う。彼は彼の信ずる正義、役目を果たそうとして辛い決断をしていたことが劇中で明かされているからだ。それがブランド教授の娘アメリアにとっても、主人公クーパーにとっても耐え難い嘘ではあったにしろ、だ。

 注目したいのは、これまでのノーランの「信頼できない語り手」を主人公にした作品は、そのラストで(もちろん良い意味での)どん詰り感が強く漂っていたという点。語り手の嘘を最後に明かすというどんでん返しによって、観客は「今まで観ていたものはなんだったんだ?」と考えずにはいられない。その仕組みは効果的な上に純粋に面白いのだが、そこで強調されるのは「現状の維持、停滞」という閉塞感であった。『インターステラー』では、この点で大きな前進が見られたように思う。クーパー、アメリア、そしてクーパーの娘マーフは、「愛の力によって」閉塞感に満ちた円環構造を脱出するのである。

 マーフという名前の元になった「マーフィーの法則」とは、Wikipediaによれば「『失敗する余地があるなら、失敗する』『落としたトーストがバターを塗った面を下にして着地する確率は、カーペットの値段に比例する』をはじめとする、先達の経験から生じた数々のユーモラスでしかも哀愁に富む経験則をまとめたもの」であるらしい。幼いマーフはこの名前を嫌がっていたが、クーパーはこれを肯定的な意味に捉えているのだ、と言って聞かせる。「失敗する可能性があるのなら失敗する」のではなく「可能性のあること全てが起こりうるのだ」と。故に、プランB以外の道が既にして閉ざされていたのだという絶望的な事実に至った後でさえ、彼らは諦めず、犠牲を払い、願いを託し、そして遂に到達するのである。全てはマーフに繋がっていたのだという答えに。

 

◆種の生存か、家族への愛か

 クーパーが宇宙へと立つことを決心したのは、「家族を守ること」と「世界を救うこと」が同義なのだと思ったからだ。しかし、宇宙空間に着いてからブランド教授に嘘をつかれていたとわかり、そのふたつが実は同時に叶えられるものではなかったのだと知る。このまま地球に帰還したところで子供の未来は守れない。教授の思惑通り第3の星で人間という種の保存をしても本来の目的であった家族は守れない。八方塞がりの状況でクーパーとアメリアは少ない可能性に賭けて「第3の星にも行くし地球にも帰ってやる」と決意し、そのように行動した結果、上に書いたような答えに到達する。

 「家族のもとへ帰りたい」という個人の利己的な願いと「世界を救う」という種の生存を懸けた願いは、相反するようでありながら最終的に同じ結末を導くという物語構造。些かロマンチックな表現になってしまうが、これは「生存本能と愛は対立するものではない」というノーランからのメッセージのように思えてならなかった。

 

ディラン・トマスの詩

Do not go gentle into that good night,

Old age should burn and rave at close of day;

Rage, rage against the dying of the light.

穏やかな夜に身を任せるな

老いても怒りを燃やせ、終わりゆく日に

怒れ、怒れ、消え行く光に

 

 予告編でも一際印象深かったディラン・トマスの詩の引用。本編中でも幾度も繰り返されており、その意味について吟じてみなければと思わされた。ネットで収集できる程度の信憑性と内容ではあるが、わかったことを少し書き留めておきたい。

 まず、この詩において「夜」は「死」のメタファーである。1日を人間の一生に喩えており、夕暮れ(=that good night/ close of day/ the dying of the light)は死を意味する。消え行く“光”とは生の灯火のことなのだ。故に、1行目の「穏やかな夜に身を任せるな」とは「穏やかに死ぬことをしてはいけない」という意味なのだろう。また「老いても怒りを燃やせ、終わりゆく日に」とは「老いし者はその命尽きる時、力の限り死に抗え」という詩人の主張だ。

Do not go gentle into that good night | Academy of American Poets←このサイトにて詩の全文を見ることができるのだが、この詩の最後の段落は

And you, my father, there on the sad height.

Curse, bless, me now with your fierce tears, I pray.

Do not go gentle into that good night.

Rage, rage against the dying of the light.

そしてあなた、我が父よ、その悲しみの頂で

あなたの激しい涙で今、私を呪い、祝福してほしい

怒れ、怒れ、消え行く光に

 ・・・と結ばれている。「我が父」とはそのままディラン・トマスの父親のことで、この詩はそもそも死の床にいる己の父に向かっての呼びかけである、というのが定説であるらしい。このことを合わせて考えると、ブランド教授がこの詩を何度も口にした意味が更に味わい深くなるのではと思う。

 

アルドノア・ゼロ12話 感想と考察+aLIEzのドイツ語歌詞について

 アルドノア・ゼロ12話を見終えて考えたことを、スレインの分析を中心につらつらと。

 

f:id:kugihami:20140921184638j:plain

 スレインというキャラクターは、なんとなくFate/stay night間桐桜と近い部分がある(あくまで“近い”だけ)ような気がします。家族と過ごした幸せな幼年時代がありながら、途中で別の場所で暮らすことになり、その先でひどく虐げられる。人間として扱われない。そんな彼/彼女には唯一自分を人として扱ってくれる拠り所があります。間桐桜にとってそれは衛宮士郎、そしてスレインにとってはアセイラム姫。スレインはその拠り所があるからこそ、どんな目に遭おうと我慢していられる。だからこそ、その拠り所を守るためなら何だってできるのです。初めての人殺しであったトリルラン卿の時こそスレインはがたがた震えていますが、その後はためらいを持たずに人を殺せるようになっているのがその証拠。

 それでも彼は、まだ子供でした。子供だから、殺す一方で情けをかけることもやめられなかった。その結果、アセイラム姫は撃たれてしまいました。

 というわけで、「ではその拠り所が消えた時、彼はどうするのか?」ですが、ここでちょっと、12話でザーツバルムがイナホと戦いながら口にしていた台詞を引用します。


ザーツバルム:わかるまい…貴様らには!植え付けられた地球人への羨望と憎しみがいつまでも我らの魂を濁らせ続け、人としての生き方を奪った。豊かな地で漫然と生きる者に我らの思いはわかりはすまい。憎しみを植え付けられた恨み、それに気付いた時の虚しさ、愛する者を守れなかった無念、わかりはすまい!我は憎む全てを倒し、憎しみの連鎖を断つ!

 

 住む星が違えども同じ人間であるとわかっている、だというのに地球人を「劣等人種」と憎しみや嘲りを込めて言う理由は羨望に帰結するのだという、伯爵の口を通して語られる火星人の本音。この言葉の直後、スレインが伯爵を助けに入ります。憎しみを叫ぶザーツバルムを助けるスレイン。この演出は、見方によってはスレインが伯爵の考えを支持している(少なくとも否定はしていない)と受け取れます。

 ザーツバルムは地球で愛する者を失い、憎しみに突き動かされた結果姫の暗殺を企て実行に移しました。

 そしてスレインもまた、地球で愛する姫を失(ったと思い込んで)います。

 ザーツバルムの憎しみを理解し、また彼と同じように大切な人を守れなかったスレインの辿る道は、これで確定してしまったように思います。憎しみに突き動かされ、それを他者に向けずにはいられない生き方です。

 

 12話の前半で、アセイラム姫が「ヴァースが憎いですよね」と言い、それに対してイナホが姫に語りかけるシーンがありました。以下会話の引用。

 

イナホ:セラムさん、どうすれば戦争が終わるか知っていますか。
アセイラム姫:それは、平和を願い、憎むことをやめれば…
イナホ:いいえ。戦争は国家間の交渉の手段でしかない。憎まなくても戦争は起こる。どうしても手に入れたい領土、利権、資源。思想や宗教やプライド。それらの目的を巡って戦争は起こる。だからその目的が果たされれば、戦争は終わる。または、利益に見合わない数の人が死ねば戦争は終わる。怒りも憎しみも、戦争を有利に運ぶための手段でしかない。僕はそんな感情に興味はありません。だから、僕は火星人というだけで憎いとは思わない。

 

 そこに割り込む形でザーツバルムが「そうか?我は地球人というだけで憎いがな」と言い、イナホとは真逆の考え方であることを示してきます。この意見の相違は、ザーツバルムと同じ側に立つスレインとイナホの相違にも通じるのでしょう。

 

 イナホは「戦争を終わらせるために戦う」人間として、対してスレインは「姫のために戦う」人間として描かれていました。そしてアセイラム姫は「平和のために戦いに終止符を打ちたい」人間なのでイナホ寄りです。この「何のために戦うかの違い」は、同じ虚淵作品である魔法少女まどか☆マギカのまどかとほむらの対立にも似ています。まどかは正義のために魔法少女になり、ほむらは愛のために魔法少女になるのですが、「一番に守りたいものが違う」ために二人はどこまでも相容れません。互いを大事に思いながらも、守りたいものが違うために噛み合わないのです。戦争を終わらせる(=平和)のために行動するアセイラム姫とイナホ、そして姫(=愛)のために行動していたスレインたちもまた、おそらく噛み合わない。

 しかし、イナホとアセイラム姫を同じ側としていいのかはちょっと迷うところ。姫は平和や秩序を一番に考えていますが、イナホは平和を第一に考えつつも、姫への愛のために行動していると取れる描写が後半に散りばめられていたからです。なのでイナホは姫とスレインの中間にいる人間なのかも?とすれば、彼が姫とスレインの仲を取り持つ架け橋的存在になる可能性もあるのかな?とも考えてしまいます。

 

 ここからは2クール目の希望を多分に含んだ予想ですが、1クール目は(スレインの行動にだけ注目すれば)スレインがアセイラム姫を助けるために奔走する話だったので、2クール目は(もし生きていれば)アセイラム姫がスレインを助けるために奔走するという立場のひっくり返った話になるんじゃないかなと思います。憎しみを動機に動く彼を、アセイラム姫が止めようとするお話に。

 

【追記】

 aLIEzの歌詞について少し。この歌の歌詞や訳・解釈関連のブログで、歌詞のドイツ語の間違った読みを載せてる方がいらっしゃいました。少しですがドイツ語を学んだ身としては居たたまれなくなったので、辞書に書いてある読みを確認しつつラストのLeben, was ist das?~で始まる部分のドイツ語読みを載せておきますね。

 

Leben, was ist das?

レーベン ヴァス イスト ダス

Signal, Siehst du das?

ズィグナール ズィースト ドゥー ダス

Rade, die du nicht weisst

ラーデ ディ ドゥー ニヒト ヴァイスト

Aus eigenem Willen

アウス アイゲネム ヴィレン

Leben, was ist das?

レーベン ヴァス イスト ダス

Signal, Siehst du das?

ズィグナール ズィースト ドゥー ダス

Rade, die du nicht weisst

ラーデ ディ ドゥー ニヒト ヴァイスト

Sieh mit deinen Augen

ズィー ミット ダイネン アウゲン

 

 以上です。単語の正しい読みを載せましたが、歌の中では英語のそれと同じように語尾の省略やなんやがあります。和訳については、これは歌詞カードには載っていないんですかね?私は3年しかドイツ語を習っていないので、英語を習い始めて3年の、謂わば中学3年生くらいのガタガタな訳しかできません・・・。

 

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』感想

f:id:kugihami:20140921184555j:plain

 マーベルが『キャプテン・アメリカ:ウインターソルジャー』に続き世に放ったのが『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』。前者はアメリカの正義など誰も信用できなくなった9.11後の世界において、アメリカの正義を象徴するアイコン「キャプテン・アメリカ」という道化になってしまった存在をどのように扱うか?というところで最高にアツく説得力のある回答を示してくれた傑作でした。

 

 そして後者の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』、こちらを見て思ったことは色々あるのですが、作品のテーマの一つに「みんな何かを失った経験があり、その悲哀を抱えながら生きている」というのがあったことが一番印象に残っています。主人公たちはそれぞれ大切な何かを失った記憶があり、痛みがあり、また自身にも欠けているものがある(それは知性であったり家族であったり仲間であったり)。

 巨大な映画市場を持つアメリカで莫大な宣伝をしてバンバン客を呼び込める作品というのは、基本的に主人公がマジョリティに属し、王道の物語をゆくものが多かった。その中でこういった、自身を〈loser(負け犬)〉と自認するようなマイノリティをメインに据えた映画は・・・意外と少ないわけではなく、むしろじわじわと増えてきているように思います。

 映画産業は大衆の思想を反映するものですから(共感を得られない作品は確実なヒットが見込みにくい)、アメリカ映画界のこのマジョリティからマイノリティ目線への主人公の変化は、そのまま大衆の目線の変化を表しているといってもよい。自らをマイノリティと自認する人が増えるのは、SNSが普及し他人との幸せの尺度を比較し易くなった今日の世界において当然なのかもしれません。家族にも友人にも異性の恋人にも恵まれ、幸せな人生を送ることが「ノーマル」の規範とされている世の中で、一体どれほどの人が己をノーマル、マジョリティであると断言できるでしょうか。誰だって何かひとつは、きっと欠けているものがあるでしょう。

 そういった自己肯定感の低さという生々しい感情の描写を、ギャグの飛び交う本編で不意打ちのように、しかし必然性を伴って挿入してくるの、ほんとズルいなあと思いますよこの映画。こんなの泣くよ。泣いちゃうよ。

 

 けれどもこの「誰もが傷を抱えてる」系の大作が出てきたことで微妙な不安もあるんですよね。本編中でもロケットが「お前だけが辛いわけじゃない」みたいなことを言うんですが、その場面でいつかどこかで見た日本の漫画・アニメの主人公の変遷の話を思い出したんです。「90年代の主人公は心の傷を見せて辛いと叫ぶことが許されたけれど、ゼロ年代は消費者側が自分以外もみんな傷を抱えていると知っているため傷をひけらかす主人公は共感されない」みたいな感じだったと思います。

 今の日本は「みんなが辛いんだから自分も辛いのを我慢しよう」が当たり前になりすぎて、もっと暴力的に「辛いのはお前だけじゃないんだから黙れ」みたいな空気が確実にあります。ネット上だと特に顕著です。なので、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』という超ノレて笑えて泣ける、エンタメの粋を集めたような最高の映画の登場によって、アメリカさんで日本のような同調圧力的空気が生まれないといいなー、と思ってしまうのです。

 

 そういえば、この映画って皆無、とまではいかないまでも恋愛色が薄いなと感じました。『パシフィック・リム』や『オール・ユー・ニード・イズ・キル』もそうでしたが、主人公とヒロインの間には確実に愛があるけれど、それを恋愛感情に落とし込まない大作映画は、これからの流行りになるかもしれませんね。

 ともあれ、久々に気持ちよく観られる大作を観たのでAWESOME MIXを聴いて映画の余韻を引き伸ばしたい気持ちでいっぱいです。まだ観てない人も、予習として聴くと(場面に合わせた曲が多いので訳も確認しておくとなお良し)本編を更に楽しめることと思います。


Guardians Of The Galaxy: Awesome Mix, Vol. 1 ...