鎖を解かれたメテウス

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【ネタバレ】『インターステラー』感想―Rage, rage, against the dying of the light

◆『インターステラー』の世界観

 それはまるで、バベルの塔の崩壊後のよう。高度化の進んだ世界で、暮らしのために必要なものは不足なく揃っているというのに、それでも人間は経済を回すため、自らの欲のため「もっと便利に、もっと先に」と高みを目指して手を伸ばし続ける。そしてついには神(もしくは地球の総意か)の怒りに触れ、地に目を伏せて生きることとなった。再び天を仰がぬように、再び過ぎた企てをせぬように、後は絶望のうちに破滅を迎えよ、と。

 ―――というのが『インターステラー』の世界観なのではと私は考えた。劇中では地球が荒廃した明確な理由は示されていないし、パンフレット記載のクリストファー・ノーランのインタビューにも「地球が荒廃した理由を説明していないのは意図的なこと、観客の想像に任せたかった」というようなことが書いてある。それならばそうしよう、と劇中の風景や人物たちの台詞から想像してみた次第だ。他にも劇中には、キリストの奇跡で死後4日目に復活したとされる「ラザロ」の名を冠した計画があるなど、聖書によっている部分がいくつか見受けられることも私の想像を堅固にする。私以外の観客は、どんな世界だと考えたのだろう?

 

◆停滞するループの先へ

 例外はあるにしろ、「信頼できない語り手」を主人公に据えることで「前進するための行為が実はメビウスの輪のごとく再帰する円環構造」を作り出す、というのがノーラン映画の魅力のひとつであった。しかし『インターステラー』の主人公クーパーは、『メメント』『インセプション』などの主人公たちと同じように利己的な面はあるものの、「信頼できない語り手」ではない。では誰がその役目を担っているのか?

 ―――なんと、今回は『ダークナイト・トリロジー』で実直な執事を演じたマイケル・ケイン(ブランド教授)。とは言っても、『プレステージ』の時に彼が演じた役のような、単純に邪悪な人物としては描かれてはいなかったと私は思う。彼は彼の信ずる正義、役目を果たそうとして辛い決断をしていたことが劇中で明かされているからだ。それがブランド教授の娘アメリアにとっても、主人公クーパーにとっても耐え難い嘘ではあったにしろ、だ。

 注目したいのは、これまでのノーランの「信頼できない語り手」を主人公にした作品は、そのラストで(もちろん良い意味での)どん詰り感が強く漂っていたという点。語り手の嘘を最後に明かすというどんでん返しによって、観客は「今まで観ていたものはなんだったんだ?」と考えずにはいられない。その仕組みは効果的な上に純粋に面白いのだが、そこで強調されるのは「現状の維持、停滞」という閉塞感であった。『インターステラー』では、この点で大きな前進が見られたように思う。クーパー、アメリア、そしてクーパーの娘マーフは、「愛の力によって」閉塞感に満ちた円環構造を脱出するのである。

 マーフという名前の元になった「マーフィーの法則」とは、Wikipediaによれば「『失敗する余地があるなら、失敗する』『落としたトーストがバターを塗った面を下にして着地する確率は、カーペットの値段に比例する』をはじめとする、先達の経験から生じた数々のユーモラスでしかも哀愁に富む経験則をまとめたもの」であるらしい。幼いマーフはこの名前を嫌がっていたが、クーパーはこれを肯定的な意味に捉えているのだ、と言って聞かせる。「失敗する可能性があるのなら失敗する」のではなく「可能性のあること全てが起こりうるのだ」と。故に、プランB以外の道が既にして閉ざされていたのだという絶望的な事実に至った後でさえ、彼らは諦めず、犠牲を払い、願いを託し、そして遂に到達するのである。全てはマーフに繋がっていたのだという答えに。

 

◆種の生存か、家族への愛か

 クーパーが宇宙へと立つことを決心したのは、「家族を守ること」と「世界を救うこと」が同義なのだと思ったからだ。しかし、宇宙空間に着いてからブランド教授に嘘をつかれていたとわかり、そのふたつが実は同時に叶えられるものではなかったのだと知る。このまま地球に帰還したところで子供の未来は守れない。教授の思惑通り第3の星で人間という種の保存をしても本来の目的であった家族は守れない。八方塞がりの状況でクーパーとアメリアは少ない可能性に賭けて「第3の星にも行くし地球にも帰ってやる」と決意し、そのように行動した結果、上に書いたような答えに到達する。

 「家族のもとへ帰りたい」という個人の利己的な願いと「世界を救う」という種の生存を懸けた願いは、相反するようでありながら最終的に同じ結末を導くという物語構造。些かロマンチックな表現になってしまうが、これは「生存本能と愛は対立するものではない」というノーランからのメッセージのように思えてならなかった。

 

ディラン・トマスの詩

Do not go gentle into that good night,

Old age should burn and rave at close of day;

Rage, rage against the dying of the light.

穏やかな夜に身を任せるな

老いても怒りを燃やせ、終わりゆく日に

怒れ、怒れ、消え行く光に

 

 予告編でも一際印象深かったディラン・トマスの詩の引用。本編中でも幾度も繰り返されており、その意味について吟じてみなければと思わされた。ネットで収集できる程度の信憑性と内容ではあるが、わかったことを少し書き留めておきたい。

 まず、この詩において「夜」は「死」のメタファーである。1日を人間の一生に喩えており、夕暮れ(=that good night/ close of day/ the dying of the light)は死を意味する。消え行く“光”とは生の灯火のことなのだ。故に、1行目の「穏やかな夜に身を任せるな」とは「穏やかに死ぬことをしてはいけない」という意味なのだろう。また「老いても怒りを燃やせ、終わりゆく日に」とは「老いし者はその命尽きる時、力の限り死に抗え」という詩人の主張だ。

Do not go gentle into that good night | Academy of American Poets←このサイトにて詩の全文を見ることができるのだが、この詩の最後の段落は

And you, my father, there on the sad height.

Curse, bless, me now with your fierce tears, I pray.

Do not go gentle into that good night.

Rage, rage against the dying of the light.

そしてあなた、我が父よ、その悲しみの頂で

あなたの激しい涙で今、私を呪い、祝福してほしい

怒れ、怒れ、消え行く光に

 ・・・と結ばれている。「我が父」とはそのままディラン・トマスの父親のことで、この詩はそもそも死の床にいる己の父に向かっての呼びかけである、というのが定説であるらしい。このことを合わせて考えると、ブランド教授がこの詩を何度も口にした意味が更に味わい深くなるのではと思う。