鎖を解かれたメテウス

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『アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン』感想

※ネタバレあり

 

◆トニー・スタークあるいは現代のプロメテウス?

 トニー・スターク、そしてウルトロンとヴィジョンの関係は、メアリ・シェリーの小説『フランケンシュタイン』における主人公ヴィクター・フランケンシュタインと彼の被造物である“怪物”に呼応する。怪物はフランケンシュタインの自己の一部、負の性質の具現化であり、この2人は互いに憎み嫌悪し合いながらも、行動や心理の端々には似通った部分がある。

 同じようにウルトロンも、度々トニーそっくりの軽妙軽薄な語り口を披露している。まったく同じセリフを喋り、そのことを指摘されると同族嫌悪からか激しい怒りをあらわにもした。また、創造主と被造物の目的の根幹が同じである点も興味深い。ウルトロンはアベンジャーズこそ世界の敵なので消すべきと考え、一方のトニーはアベンジャーズの必要ない平和な世界を望んでいる。どちらも結果的に望んでいるのはアベンジャーズのいない(いなくてもいい)世界なのだが、手段が噛み合わないのだ。

 

 小説『フランケンシュタイン』には「あるいは現代のプロメテウス」という副題がついているが、このプロメテウスとは、ギリシャ神話において天上の火を盗んで罰を受けた英雄にして「反逆者」の原型でもある神だ。そしてオイディウスの『変身物語』においては、粘土から最初の人間を創り出した「創造者」の原型でもある。

 フランケンシュタインがそうであったように、トニー・スタークもまた、「自身の発明によって人類に恩恵がもたらされるであろう」という英雄的精神でもって新たな生命を生み出したことにより、自身の望むものとは真逆の結果を得、大いに苦しむことになる。『エイジ・オブ・ウルトロン』はこのように、神話的要素の強い作品となっている。

 そして、小説に則れば、創造主の悪の面だけが創造物に反映されそうなものだが、『エイジ・オブ・ウルトロン』では創造物すら善(ヴィジョン)と悪(ウルトロン)に分けて描かれたあたりヒネリがきいている、といえるのだろうか。

 NHK「100分de名著」シリーズの『フランケンシュタイン』のテキストの中で、解説者の廣野教授はヴィクター・フランケンシュタインに関し、

“(彼は)「英雄」の名にふさわしい人物なのでしょうか?・・・彼は偉業を成したというより、自分で世界に持ち込んだ「怪物の種」という新たな災いを根絶することにのみ、自らの命を無駄に使い果たしたに過ぎないのです。・・・無から有を生み出す試みは、結果的には、より多くの死をもたらし、幸福よりも不幸を招くことになりました”

 と述べている。これは今のところの、トニーの成したことに対する私の印象と同じである。ここからどう挽回していくのかによって、私の中での評価も変わることだろう(変わってくれなければ困る)。

 

◆不満点

 前作以上に登場キャラクターが増えた状態で、メインストーリーを進めつつそれぞれに見せ場もつくり、かつ次のMCU系列作品につなげるための伏線も張らなければならない・・・ということで、映画一本の中にとにかく情報を詰め込まなければいけなかったことは伝わってきた。それがどんなに大変なことであったかも推して知るべしだ。

 しかし正直なところ、私はこの作品を面白いとは思わなかった。というより、今作の内容がこれ以降のMCU関連にどのような影響を及ぼすのかを見届けない限りは、判断のくだしようがないと思っている。

 そのため、今作への私の不満点は(現時点では)ひとつだけなのだが、そのたった一点でこの映画、ひいてはアベンジャーズというものへの熱が冷めかけたことは言っておきたい。

 

 その一点とは、今作におけるナターシャ・ロマノフの恋愛描写だ。

 別に彼女が恋愛をしたことに不満があるのではない。トニーにもスティーブにも想い人はいるし、今回明らかになったようにバートンも家庭を持っている。そうなれば、残った二人がくっつくのはわからなくはない。しかしそれならば、これまでの作品のどこかで伏線を張っておくなどして、これが自然な流れだと思わせてほしかったのだ。今作で唐突に「お似合いだよ」「二人の関係に気付いてなかったの?」と取ってつけたように言われても、“言わされている”という違和感の方が勝ってしまう。きわめつけはナターシャの谷間にバナーが顔を突っ込むシーンで、あれには失笑を通り越して背筋が寒くなった。

 『キャプテン・アメリカ:ウィンターソルジャー』で、ナターシャは中盤「シールドに入れば自分は変われると思った。でも戦う相手が変わっただけなのかも」と不安を口にする。しかし終盤では、「確かに私たちは世界の危機を招いた。でもそれ(世界)を守れるのも私たちだけ。だから自分は逃げも隠れもしない」と、堂々と宣言する。

 そんな彼女が、『エイジ・オブ・ウルトロン』ではバナー博士に、一緒に逃避行しようとせがむ。逃げも隠れもしないと宣言した彼女が、である。これにはひどく悲しくなった。バナーとナターシャに本気の恋愛をさせるという流れの中で、ナターシャをフィクションにありがちな、ステレオタイプの「女」の枠にはめこみ、これまたステレオタイプなセリフを言わせたことで、彼女の人間性が犠牲になったように思えたのだ。それだけはどうしても納得がいきそうにない。

 また、日本公開前にクリス・エヴァンスとジェレミー・レナーが今作のプロモーションツアーの最中に、ナターシャを「アバズレ」「完璧な娼婦」であると発言したという記事(ニュース:『アベンジャーズ』クリス・エヴァンスとジェレミー・レナー、ブラック・ウィドウを「アバズレ」と呼んで問題に! | 海外ドラマNAVI)を見てとても悲しくなったのだが、本作を観た後ではそんな発言をする人が出てきてもおかしくないと思え(だからといってこの発言を許せるわけではないが)、余計に辛い気持ちになった。

 

 こういう理由からアベンジャーズへの熱が引いてしまい、次の『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』は観に行かないかもしれないと思っていたのだが、エンドクレジット中に『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の敵役サノスが現れ、次作に登場すること示唆してきたので、GotGが好きな私は観に行かざるを得ない。

 また、日本では9月19日に封切られる『アントマン』の劇中に『キャプテン・アメリカ:シビル・ウォー』に繋がるシーンが含まれているという情報もある。

 不満はあれど、結局MCU作品は全てチェックしなければならないようだし、今作がこれからの作品にどう響いてくるのか、今は見守るしかないようだ。