鎖を解かれたメテウス

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クリストファー・ノーラン 曖昧になる真偽と正義

 今回はクリストファー・ノーラン監督の映画『メメント 』『インセプション 』『ダークナイト 』について思うことを書いていきます。上記3作品を観ていることを前提に書いていますし、ネタバレには全く配慮しておりませんのでご注意。

 

◆『メメントメビウスの輪の囚人

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 『メメント』は10分しか記憶のもたない主人公レナードが、妻を殺害した犯人を探すクライム・サスペンス・・・と思わせておいてアレでしたね。あのラストはアイディアの圧倒的な勝利を見た気がしてとても興奮しました。

 『メメント』に私がどうしようもなく惹かれるのは、私が大好きなテーマを嗅ぎ取ったからです。「お前の世界の在り方を決めるのはお前自身だ」というテーマ。これはウォシャウスキー姉弟の映画にも深く根付いています。

 どういうことかと言うと、『マトリックス』の表現を借りれば「青いカプセル(真実からの逃避、無知でいることの幸福)を選ぶか、赤いカプセル(真実への到達、智を知るが故の痛苦)を選ぶか」ということです。青を選ぶか赤を選ぶかは己の手に委ねられている。どちらを選ぶかは、あなたがそのどちらを望んでいるのかに因るのです。

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 ところで赤いカプセルで目覚めるというのは、聖書のイヴを想起させますね。知恵の実(赤いカプセル)を食べることで己の姿(真実)に気が回るようになり、創造主(支配者)の怒りを買って楽園(夢の世界)を追放される、という。

 さて、『マトリックス』でネオたちは赤のカプセルを選び現実の世界を知りますが、『メメント』の主人公が選んだのは青のカプセルでした。物語として健常なのは普通に考えて『マトリックス』の方です。自分を支配していた世界への反逆、そして自ら新しく世界を切り開いていく・・・王道ストーリーですね。

 一方『メメント』のレナードは、自責の念から逃れたいという一心で妻を殺した犯人を探し続ける無限ループに陥っています。物語というのは本来進行するほどに世界が開けていくものですが、この映画ではレナードの世界が時間の経過とともにどんどん開ける(=犯人へ近付く)ように思わせておいて、ラストで「むしろ彼の行動は内へ内へと閉じてゆく行為だった」と明かしてくるんです。

 この結末に私が感じるのは、本来望ましい健常な結末に背を向けることへの背徳感。現実からの逃避という甘い誘惑です。『マトリックス』のネオのように、誰もが赤のカプセルを選べるわけではありません。私などは矮小で弱い人間なのでむしろ青のカプセル、現状の打破よりも現状の維持を選んでしまうと思います。だってどう考えたってそちらの方が楽ですし。ですが、王道ストーリーというのは大概そういう怠惰を許しません。大衆はヒーローを求めますし、もっと単純な話、そうしないと物語が進まないからです。それが普通だからこそ、王道のプロットを踏襲しつつ最後にそれを全部ひっくり返したノーラン監督の手法が話題になり、多くの人が考察せずにはいられなくなったのでしょう。

 

 ◆『インセプション』うつつは夢、夜の夢こそまこと

 『インセプション』の主人公コブと『メメント』のレナードに共通するのは、「王道ストーリーの主人公の皮を被った逸脱者」であることです。彼らは自分の目的達成のために危険な橋を渡り、戦闘を辛くもくぐり抜け、他人の思惑に翻弄されながらも前へ進む。けれど映画の最後に、それが彼らの頭の中という狭い狭い箱庭で行われていたお遊戯だったと我々は知ります(コブはそこのところ曖昧ですが、ここではそういうことにしてください)。彼らは頭の中でひたすらシーシュポスの岩運びに耽っているのですね。それも自ら望んで、です。

 ここから自分語り的なものを含みますが、レナードのループ作業とコブの頭の中でのお遊戯って、考えれば考えるほど普段私がTVゲームをするのと同じ感覚なんだろうなって思うんです。ゲーム機を起動して、コントローラー握って、パーティーメンバー選んでさあ冒険だ、という一連の作業を、コブは自分の頭の中だけでやりきっている。それから、「ずっとこの世界観に浸っていたい」と思うゲームで2週目を始める行為なんかまんまレナードと同じなんです。それに気づいて、ちょっと胸を抉られる心地になったんですね。レナードとコブを見てると「これ、私のことじゃん!」ってなる。

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 ループもの作品の解説本をいくつか読めば、どの本でもループものに我々が惹かれる理由を論じていることがわかります。そしてその中でもおおよそ共通して語られているのが、「ループは現状の維持であり、停滞であり、安息でもある」ということ。生まれた時からずっと不況の中で育ってきた若者は将来に希望がないから前に進みたくない。成長するより現状維持を望む傾向にある。だからループの中で停滞する話に惹かれるのだ、と。だいたいこういう感じですね。勿論、ループものを好む人が全てこれに該当するわけではないと論じられている方々も注釈を付けています。

 ですが、少なくとも私は「痛いところを突かれたな」という気持ちになりました。不況が関係あるかはわかりませんが、例えば中学校から高校、高校から大学・・・という風に社会的な段階を踏んでいくこと、その過程で住み慣れた場所を離れ新しい環境へ置かれること。これらは私にとって楽しみであると共に恐怖でもありましたから。ループものというのは、確かにこういった恐怖に寄り添う一面もあるのだと思います。

 こういう現実逃避系主人公の映画を2つも撮ったクリストファー・ノーランという男は一体・・・という話になるんですが、ノーラン兄弟って父がイギリス人、母がアメリカ人ということもあって、幼い頃はイギリスとアメリカを行き来していたらしいんですよね(wiki参照)。推測でしかありませんが、彼らは幼いうちから両国を行き来するなかで、自分の居場所はどこなのだろうと考えたりしたのではないでしょうか。また『ダークナイト ライジング』の特典映像で弟のジョナサン・ノーランが「小さい頃兄貴にバットマンのコミックスをもらって云々」と言っていたので、兄弟二人でコミックを読んで紛らわせた種々の感情があったのではないかと思うのです。そう考えると、まことに勝手ながら少しこの監督に親近感が湧いたり・・・。

 

◆『ダークナイト』寄る辺なき正義の行方

 それでは最後に『ダークナイト』について。同じく哲学的ではありますが、前の2作品とは雰囲気のガラリと変わる作品ですね。

 この作品については語りたいことが多すぎるので、的を一つに絞って感想を書いていきます。私が劇中で面白いなと思ったのは、ジョーカーが社会学的実験と称して囚人を乗せた船と一般市民を乗せた船に爆弾を仕掛け、先に爆弾のスイッチを押した方の船を助けると持ちかけるシーン。この持ちかけの巧妙なところは、一般市民と囚人のどちらが先にスイッチを押そうと、これをきっかけにゴッサムが無秩序な争いに飲み込まれるであろうという点です。

 一般市民側の船では押すか押さないかの多数決投票が行われ(民主主義のテンプレすぎてちょっと笑いました)、結果スイッチを押すという意見が多数を占めます。しかし結局、「囚人など死んで当然だ」と豪語していた過激オヤジですらスイッチを押せませんでした。もう一方の船でも、スイッチは1人の囚人の手によって海へ捨てられます。両者が互いの命を尊重しあうことで全員が助かるという、寓意の潜んでいそうなシーンです。

 ではその寓意は何か考えます。まず両者の対立図は「社会的強者と社会的弱者」の対立構図であると考えていいでしょう。一般市民側から見れば相手は受刑者、つまり脅威です。逆に囚人側から見れば相手は犯罪者である自分たちを下に見ていて、自分たちの命も軽んじているはずだ、という意識があるでしょう。そんな両者が手を取り合ったのは、どちらの側もバットマンの掲げる正義の形に同調意識を持っていたから。バットマンは人殺しは絶対にしないのです。

 ジョーカーの言っている「社会学的実験」の内容は、いわゆる「囚人のジレンマ」に近いものです。しかし『ダークナイト』では、自分の船とは別の、もう一方の船に乗っている不在の他者に対する想像力を働かせた両者がその帰結を拒んでジレンマから抜け出すのです。自分の行いは正しいか、それは誰かを傷つけるものではないか?と考え続けることこそが、ノーランがこの船のシーンに含ませた寓意であったのだと思います。

 しかし一方で、このバットマンが掲げる正義というのも多くの問題とジレンマを抱えているように思えます。マスクの下のブルース・ウェインは、幼い頃の恐怖の対象であったコウモリと、それを恐怖したことが間接的に両親の死に繋がってしまったというトラウマを持っているのです。単純に正体を知られないためではなく、幼い頃のトラウマを克服するために恐怖の対象であるコウモリの衣装に身を包む。そんな彼の行為はどこか歪さを感じさせます。

 『ダークナイト』関連の考察では散々出尽くした感はありますが、ジョーカーという巨悪はバットマンがいるからこそ成り立つんですよね。光あるところに影はできるからこそ、バットマンの登場したゴッサムにジョーカーは存在する。それは言い方を変えれば、光なきところには影もまたできない、従ってバットマンがいなければそもそもジョーカーは存在を許されないということ。光と闇の関係のように、正義と悪は鏡像的関係にあるのです。 

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 また『ダークナイト』はアメリカ同時多発テロと絡めて語られることが多い作品です。テロの起きた2001年当時、私はまだ小学3~4年生だったので、あのテロが世界でどういった意味を持つのかいまいち理解していませんでした。大学に入った頃にようやく事件を振り返り、ブッシュ大統領ビン・ラディン一族の癒着やイラク戦争の真実を知り(その多くは『華氏911』から学びました)、それからアメリカ映画を観る目も変わっていったのを覚えています。

 テロが起きてから、それまで「アメリカこそが正義」的なものが多かったアメリカの大作映画の中に、少しずつその正義を疑う作品が出てきました。上でも書きましたが、映画というのは大衆娯楽ですので、時代によって移り変わる大衆の意識をどんどん反映させていくものです。そんな中で「正義と悪の鏡像的関係」を描いた『ダークナイト』が爆発的にヒットしたのには、やはり面白いという以外にも理由があったのでしょう。自国の正義を国民が信じて開戦したイラク戦争がどのように終わったか。政府側の主張する大量破壊兵器など見つからずじまいでしたね。アメリカの振りかざした正義は、一体アメリカに、イラクに、世界に、何を残したのでしょうか。自分たちの信じた正義が誰のためにもならなかった、それどころか自分たちこそ悪ではないのかと知ったアメリカ国民の意識には、どのような変化があったのでしょう。

“悪よりはむしろ、正義こそがトラウマ的なものであるという主張は、『9.11』後の世界においてはこのうえなくリアルに響く。それは正義と悪の鏡像的な関係と相まって、正義の追及がいつの間にか悪と見分けがつかなくなるという点にまで及ぶ。”

 ・・・と、『ユリイカ』平成24年8月号にて斎藤環氏が述べているように、バットマンが掲げる正義とはトラウマ的体験を受けて復讐という正義をかざした結果、鏡像的に己の行為こそが悪を生み出すものであると気付く、まさに穴だらけの正義でもあったわけです。このメッセージがアメリカ国民にどう響いたか。その答えは、『ダークナイト』の本国でのヒットが示していると思います。

 

 ・・・とりあえず3作品、思うところを語ってみました。クリストファー・ノーラン作品の魅力は、映画というフィクションの中に現実へ置き換えて考えられる様々な要素をふんだんに含ませている点にあると思います。『ダークナイト』続編の『ダークナイト ライジング』でジョーカーとの対決の行方が描かれることはありませんでしたが、この作品の映像特典にてモーガン・フリーマンが“クリストファーの脚本は独創的だ。過去の作品と同じことは繰り返さない”とコメントしている通り、実はこの『ダークナイト』トリロジーはどれもテーマが違うんですよね。きちんと分散させている、と言いますか。逆に言えば『メメント』と『インセプション』の帰結が似通っているのは、このテーマがノーランにとって重要か示しているとも考えられます。ただ、全く同じテーマはもう扱わないのかな、という気はするので、そこのところ新作『インターステラー』はどうなるのか、今から楽しみです。

 

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