鎖を解かれたメテウス

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【ネタバレ】映画『マレフィセント』考察―“真実の愛”への意趣返し―

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 7月15日、『マレフィセント』を観てきました。予告の印象から『アナと雪の女王』に近いテーマを扱うのだろう・・・とは思っていたのですが、より大人向けにチューニングアップされたものになっているため(あくまで私個人としては)アナ雪以上に見ごたえのある作品になっていることに驚かされました。

 と言っても、この映画のストーリーのみをそのまま受け止めれば「悪役とされてきたマレフィセントを主役に据え、あんなにワルになったのにはこんな悲しい理由があったんだ」と理由付けをする物語・・・でしかありません。もちろんその作りだけでも十分に面白い映画ではあったと思いますが。

 私は『マレフィセント』を別の側面から見た場合の魅力について、思うところを指摘してみたいと思います。その魅力とは、簡単に言えば“旧来のおとぎ話のセオリーを破壊しにかかっている”ところです。

 これを説明するために、まず「おとぎ話のセオリーとはなんなのか」を述べるところから始めます。『マレフィセント』を読み解くには、このセオリーを理解しておくとより見えてくるものがあると思うのです。

◆以下の説明のためにおとぎ話と魔女―隠された意味を参考にさせていただきました。

 『ヘンゼルとグレーテル』、『オズの魔法使い』、またディズニー映画の原作になっている『人魚姫』、『白雪姫』、『ラプンツェル』・・・これらに共通する存在として、魔女がいます。魔女とは、おとぎ話につきものであり、また(表現がマイルドになっていることも多いですが)例外なく彼女らの悲惨な死によって物語はハッピーエンドで幕を閉じるのです。

 そう、魔女は物語の終わりに死ななければならない存在。ですが、何故彼女らの死が物語の必須条件となっているのでしょうか?

 この問いの答えは、物語の中ではなく、むしろ読み手である私たちの側にこそあります。
 おとぎ話というのは子供の時分に読むもの。そして子供という存在は、まだ人間としての精神の基礎が出来上がっていない状態にあります。精神の基礎とは、ここでは「善と悪の認識」を指します。この認識が未熟な状態である幼い子供は、感覚的になんとなく「よいもの」と「わるいもの」がわかりますが、その境界も定義も最初は曖昧です。
 その曖昧な境界にきっちりと線引きしてくれる存在は何か。それは(現代においては古い考えと言えますが)子供と最も過ごす時間の長い「母親」です。子供にとって母親とは生命を与え、かつ育ててくれるもの―――大いなる善の根源であると言えます。

 ですが母親も、母である前にひとりの人間ですから、当然子供の要求にすべて答えるということはできません。環境によっては、お腹を空かせた子に満足に食べさせてやれないし、ぐずった時に必ずしも仕事を放り出してあやしてやれるわけでもありません。
 そんな母親を見ても、子供というのは母性という幻想にしがみつこうとしてしまうものです。しかし実際に母親の嫌な面を目の当たりにした子供は、当たり前のように現実と理想の乖離に混乱してしまいます。
 その時子供は、頭の中で母を「よい母親」と「悪い母親」に分けてしまうことで、この混乱を解消しようとします。アルコール中毒の母を持つ被虐待児が、「お酒を飲んでいない時のママは優しくていいママだけど、お酒を飲むと怖いママになるんだ」・・・などと言う展開、小説やドラマによくあると思うのですが、これがわかりやすい例でしょうか。
 この分離された母親の人格は、子供の人格形成にも影響していきます。「優しいママ」を自分の善、「怖いママ」を自分の悪として内面化し、自己意識を変質させていくのです。良い母の振る舞いは自己の肯定的な振る舞いに、悪い母の振る舞いは悪い自己の行いに、というふうに。

 そして、この時に意義を持つものこそ、おとぎ話なのです。

 おとぎ話における魔女とは、上記の「良い母親」と「悪い母親」のうち読み手──精神的に成長途中である子供にとっての「悪い母親」の具現、もっと言えば、悪を悪と認識するための教材的役割を担っているのです。子どもの頃、みなさんもおとぎ話の意地悪で醜い魔女とその死に様を見て「こんな風にはなりたくない」と己の行動を省みたり、または大人からそのように諭されたりということがあったのではないでしょうか。このようにして幼い時分、私たちは悪を悪として認識し、そうならないように努めるのです。
 こういったゆえんで、おとぎ話において子供は己の善を主人公に重ね、己の悪の具現である魔女を倒すのです。このことが、自分の中から悪を閉め出し、善へと舵を切ることにつながるわけです。それが普遍的なおとぎ話の教訓と言えます。
 それ故に、己の悪の部分である魔女は滅ぼされねばならないのです。そうしなければハッピーエンドは訪れません。

 ・・・・・・というのが、おとぎ話に広く該当するセオリーです。

 これをもとに映画『マレフィセント』の物語を考えていきます。

 

 

 この映画は、前記に代表されるような「おとぎ話のセオリー」をいくつもの面で破壊していく話です。これから、それを三つに分けて説明してみたいと思います。

①魔女的な存在であるマレフィセントは、オーロラ姫に呪いをかける悪(悪い母親)の側面と、彼女を見守り育てる善(良い母親)の側面の両方を兼ね備えていました。
 おとぎ話において分離されることが必須な、母親の善と悪を分離させなかった。このことから、ディズニーは子供の善と悪の観念に踏み込もうとしていることがわかります。
 ディズニーがやりたかったのは、おそらくこれまでのおとぎ話に委託されて語られることで人格をなくした「母親」という存在の統合だったのだと思います。母親は願望を叶える万能の存在ではなく、善も悪も内包する一人の人間であるのだということを、子供達に教えようとしたのです。

②オーロラ姫について。映画を観た人はみんな、終盤で王子様のキスを受けた姫が目覚めなかったことに驚いたのではないでしょうか。私はすごく驚きました。
 だって、『アナと雪の女王』(観てない人にはネタバレになります、すみません)においてすら、アナはクリストフ(=王子)のキスを、エルサの命と自分の命を秤にかけた結果選ばないという決断をしたのです。なので、状況次第(たとえばエルサに命の危機が訪れなかったとしたら)では、アナとクリストフがキスしてアナの魔法が解けることもあったかもしれない、と考える余地がありました。これは王子様願望のある男の子への最小限の配慮だと思ったんですが、オーロラ姫はキスしたのに目覚めない。もう『マレフィセント』は、『アナと雪の女王』以上に完璧に白馬の王子様を否定しているのです。

 もともと、童話『眠りの森の美女』の初期原典(のひとつ)である『日と月とターリア』(作ジャンバティスタ・バジーレ)は、こんこんと眠る姫に一目惚れした王子が姫の純潔を奪い、姫は眠ったまま妊娠して9ヶ月後に双子の赤ちゃんを産む・・・という話です。この話に改変が重ねられ、強姦のマイルドな表現として「キス」という形に落ちついたのですね。これがロマンチックの代名詞と言っても過言ではない、王子様のキスの正体です。

 そういうことを踏まえて、『マレフィセント』におけるオーロラ姫と王子様のキスの場面を思い出してみると、ちょっと所感も変わってくるんじゃないでしょうか。無防備に、抵抗もできず、ただ眠っている女性に一度面識があるだけの男性がキスをする。昔だったら罪に問われなかったかもしれませんが、現代ではそれは立派な犯罪ですよ、王子様。

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 とにかく王子様のキスに関して、オーロラ姫には拒否する権利がないんです。しかも、そのキスで絶対目覚めなくてはならない。姫には受け入れるという選択肢しかない。まるで呪いのようなロマンスの法則です。

 これは私の私見ですが、そもそも一目惚れとは美への愛であって、その人の人格へ向けられた愛ではありません。美貌だけを愛されたオーロラ姫が王子の手を取っていれば、美への執着の結果、病んだように鏡に話しかける『白雪姫』の継母のような運命をたどった可能性もあるのです。
 ディズニーは「拒否権のないキス」「一目惚れを真実の愛にカウントすること」のふたつにノーを突きつけ、「王子の愛を受け入れないお姫様」を創造したのですね。

 

 また、①と②を複合的に考えると、『マレフィセント』は観る側の立場によって受け取るメッセージが変わってくるであろうことも面白い点だと思います。マレフィセント目線(=母親的立場)の人が観れば、「四六時中良い母親でなければならない」という強迫観念を取り除き、自分の中の悪すら肯定してくれる救済の物語ですし、オーロラ姫目線(=子供)の人が観れば白馬の王子様幻想の否定と、あなたには愛する者を選ぶ権利があるんだ、という現代的な示唆がなされているのです。

③最後は、ステファン王について。

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彼はマレフィセントを己の出世欲のために利用し裏切る『アナと雪の女王』のハンス王子みたいな人です。しかし彼には、よりリアルな人間の感情が丁寧に付与されているなと感じました。彼は自分の行為に対する報復(娘への呪い)を受けたことで、精神的に病んでしまうのです。
 マレフィセントの翼を奪う際に一瞬ためらっていることで、彼がマレフィセントへ心を寄せていたことが真実であるとわかります。かつて愛したものを裏切った。このことはステファン王の心に影を落としていたことでしょう。擁護する気はありませんが、彼は非情な選択をしながらも自らは非情な心に染まりきれなかったのです。
 そこに決定打を打ち込んだのがマレフィセントによる呪いで、彼は自分の罪から逃れたいと思ったすえに精神を病み、マレフィセントを打ち倒すことが生きる目的になった結果、妻はもとよりオーロラ姫への愛も失っています。妻を看取ることもせず、ただ己の強迫観念に取り付かれて娘を遠ざけ、かつ戻ってきた娘との再会シーンは親しみも何もあったものではない。なんと崩壊した家庭であることでしょう。旧来のディズニー映画とは違う、苦難から逃げおおせた主人公を暖かく迎える両親の不在。このことから、ステファン王の役割は血のつながりという意味での親子愛神話の否定なのだと思います。

 オーロラ姫を愛してくれるはずの父親は心を暗黒に支配されていて姫のことは眼中にないし、王子も見た目にしか惚れてないのでダメ。そもそも本来のおとぎ話の目的として、子供が自分と存在を重ね合わせるべき「善」であるオーロラ姫は眠っていて行動不能。

 完全に手詰まり、必勝存在である善の不在です。ならば姫を目覚めさせる真実の愛は、善は、どこに見出せばよいのでしょう?

 

 その答えになる存在が、マレフィセントだったのですね。
 血のつながりはあっても自分を愛してくれない父親でも、自分の見目にのみ惚れた王子でもなく、自分を愛してくれ、また自分も愛したマレフィセントこそが、オーロラ姫の呪いを解く存在でした。彼女はマレフィセントの悪も善も受け入れ、愛を贈るのです。

 冒頭でマレフィセントが自分に親はいないと言ったことと、オーロラ姫が途中まで自分に両親はいないと思い込んでいたこと。そして愛に裏切られたマレフィセントがオーロラ姫に「真実の愛でなければ解けない呪い」を与えたことは、マレフィセントとオーロラ姫が鏡合わせの存在であることを示しています。愛に裏切られたマレフィセントもまた、真実の愛でなければ解けない呪いにかけられていたのですから。
 そんな愛などないと思うからこそかけた呪いであったのに、結果的にその呪いは自分が解くことになってしまった。この時オーロラ姫だけでなく、マレフィセント自身も救われていたのですね。
 その時こそ、かつて愛に裏切られ翼(=自由)を奪われたマレフィセントも、オーロラ姫の尽力によって再び翼を取り戻す、という物語構造になっているのです。

 以上が、私の考察です。
 大雑把にまとめると、『マレフィセント』という映画でディズニーがやりたかったことは
①母性神話 ②白馬の王子様 ③血のつながりによる親子愛神話
この三つの否定だったのだろう、ということです。

③について補足すると、実はおとぎ話のもう一つのセオリーとして親殺しは御法度、というのがあります。実の親が悪の役割を担うのは読み手にとって生々しすぎるという配慮からのものです。しかし、この映画では血の繋がりによる親子愛というものを否定しているので、ステファン王のあの結末もありなんだろうなと思います。むしろよくやったな、とすら思いました。

 

 私がこの映画で感動したのは、上に挙げた三つの要素をあのディズニーが発信した、ということです。『アナと雪の女王』を観た時も、あの大きな路線変更に驚かされました。なにせ、現代におけるおとぎ話の発信者、それも世界規模の影響力を持つディズニーが“愛の多様性と自己の統一”をテーマとして打ち出したことはそのまま、彼ら自身が囚われているおとぎ話の呪いを解こうとしていることと同義だからです。
 彼らは分離された自己の善と悪という問題を、悪を打ち倒すことで解決するのではなく、悪の部分を受け入れ折り合いをつけることで解決しようと言っているのですね。大人はみんな、自分が良いだけの人間ではないことを知っていますから、このメッセージは誰もが受け入れやすいものなのではないかと思います。

 ただ、マレフィセントを悪の権化として描かなかった代わりに、この映画では新たな悪が作り出されたことも事実です。それはもちろんステファン王のことなのですが、マレフィセントの悪以外の面を描くために、彼がこの映画での悪役となってしまいました。悪役を悪として描かない物語の話だったはずなのに、こうして新たな悪が、それも旧来の魔女のように救いようのない悲惨な死を遂げる。新たな犠牲の誕生です。善を描こうとしても、その中間を描こうとしても、このように必ずつまはじきにされる悪のキャラクターが出現してしまう。これは打破できない円環構造なのかもしれません。ですが、マレフィセントをこのように描いた以上、ディズニーには新たに創造されてしまったステファン王のような悪にもスポットライトを当てる義務が生じたと思います。どれくらい先になるかはわかりませんが、時代が移ればこの問題に答えが出る時が来るのでしょう。

 最後に、ディズニーの変化をリアルタイムで目撃しているということに、私は感動せずにはいられませんでした、と言っておきたいと思います。本当に素晴らしい、語りがいのある映画なので、色んな人が観て、色んな感想を持ってくれることを願います。私も、色んな人の感想を見て柔軟に思考していけたらと思っています。

 

 

 

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