鎖を解かれたメテウス

映画とか海外ドラマの感想を吐き出すブログ。たまにゲーム

映画に見る胎内回帰願望とフェミニズム

 先日キム・ギドク監督の『嘆きのピエタ 』(2012年にヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲っています)とニコラス・ウィンディング・レフン監督の『オンリー・ゴッド 』を観ました。この二つの映画に物語的な関連性があるかと言われればないんですが、ちょっと劇中で同じテーマを映していたのが気になり、それからずっと悶々としてたことをここでちょっと吐き出したくて書いています。

 同じテーマって何が、という話ですが、言ってしまえば〈胎内回帰願望〉あるいは〈子宮回帰願望〉というヤツです。

 『嘆きのピエタ』では主人公が自分を捨てた母親を名乗る女性を押し倒して「俺はここから生まれてきたのか」とか「ここに戻りたい」とか言いながら局部に手を突っ込んでいくシーンがあります。『オンリー・ゴッド』では、もうモロに腕までズブズブと・・・なシーンがありました。なかなか衝撃的なんですが、どちらの行動も胎内回帰願望というものの現れらしいんですね。

 胎内回帰願望って何かというと、字面そのままではあるのですが母親のお腹の中にいた時に戻りたい、という欲求のことだそうです。それは私も理解できない感情ではないのですが(どうしようもなくなった時とかに「生まれてこなきゃよかった≒生まれる前に戻りたい」とか思ったことがありましたから。これもそういう欲求のうちですよね?)、でもひとつモヤモヤすることがあって。それは「映画の中で散見される胎内回帰願望は、なべて男が主体であるのでは」ということ。

 

 Twitter経由で知ったのですが、SciFiNowの記事にてレクシー・アレクサンダー監督が「The point is the principle of equality(平等原則の問題)」について語っているものがありました。元ツイートをしていた方が重要な箇所の要約をしてくださっているので、そちらも載せておきます。

 この記事を読み、日本より男女平等の観念が進んでいるであろうアメリカでもまだこういう段階なんだな・・・と少し、いえかなり残念に思いました。私が好きな映画に『フローズン・リバー 』という作品があるのですが、監督はコートニー・ハントという女性です。この映画はサンダンス映画祭でグランプリを受賞した良作であり、この素晴らしい映画を撮ったハント監督はこれからどんどん映画界で活躍するだろう・・・と思っていたのですが、なんと彼女の次回作の公開は2015年なんです。『フローズン・リバー』が2008年の映画であることを考えると、あまりにも間が空いています。

 シネマトゥデイさん→http://www.cinematoday.jp/page/N0015284でハント監督のインタビュー記事が読めますが、これを読めば彼女が監督業にやる気を見せていることがわかります。だというのにこんなにも間が空いているのは、(推測でしかありませんが)出資者を募るのが難しいからなのではないでしょうか。この記事の中でも、資金集めに大変苦労したと書いてありますし。上記のレクシー・アレクサンダー監督のインタビューを見ても、女性監督がいい映画を撮っても将来の安泰は約束されていないとあります。

 

 また、ダニエル・ラドクリフが映画界の男女の機会不均等について意見を言った話があります(ダニエル・ラドクリフ「僕はフェミニスト」 | ニュースウォーカー

 

複数の映画で、女性の役のキャラクターをしっかり構築するようにと説得したことがある。以前に比べると女性の脚本家は増えているけど、ほとんどの女性のキャラクターは男性に書かれたものだからね。”

 この意見に、私は思わず膝を打ちました。

 映画の中で女性がえげつない行動をすると、高確率でそのレビューの中で「やっぱ女って怖い笑」と書く人がいます。これ、以前からすごく疑問だったんです。だって、多くの映画の映画は男性が書いて男性が監督をするものですから、そういう映画を観て「女は怖い」と言う人は実際の女性ではなく〈男性の考えた虚構の女性〉を怖がっているということになりますよね?また、映画の中で男性キャラがどれだけえげつない行為をしようが「○○(キャラ名)が怖かった」と言われることはあれ「男って怖い笑」と言われることは稀でしょう。男性のそれは個人の問題として見られるのが当たり前なのに対して、女性のそれは何故か「女全体の問題」として語る人が一定数いる。映画を作る側だけではなく、観る側だってこんな風に目線が平等ではないのです。

 ダニエル・ラドクリフは続けて“僕はフェミニストだと思う。それは僕がすべての人間に平等な権利が与えられるべきだと思うからだよ。”と言っています。日本でフェミニストって言うと、女性に優しい/甘い男性という意味で通ってしまっているように思いますが(実際その意味でも辞書には載ってはいます)、ダニエル・ラドクリフが言っているのは「男女同権論者」という意味でのフェミニストですね。

 

 それから先日クロエ・グレース・モレッツがインタビュー(Chloe Grace Moretz on how piracy stopped 'Kick-Ass 3' from happening | Inside Movies | EW.com)で「2の海賊版が広く出回ったことで『キック・アス3』は作られないでしょう」と述べたほか、ハリウッドにおける女性スーパーヒーローの扱いに失望を表したとあります。“女性のスーパーヒーローはあるがままのキャラクターを見せることよりも、より性的なプロットラインの方を求められます。それはクールじゃない。むしろ悲しい”と。

 

 私がいわゆるフェミニズムに関心を向けたのは本当に最近のことなので、恐らく今までもあったであろう映画界の男女の不平等性の話題が正直全く目に入っていませんでした。ですが、女性の監督や発言に注目が集まる若手の俳優・女優さんたちがこうやって語るのを見るにつけ、私は認識を改めつつあるのです。最初の話題に戻りますが、「映画の中で散見される胎内回帰願望は、圧倒的に男性の欲望として描かれている」ことも、映画界の男女不平等に関係がないわけではないのだろうと今なら思います。

 嘆きのピエタ』なんかは特にそうですが、胎内回帰願望を表した行動って、男性がやるとどうしても(それが作り手の意図的なものか私のバイアスにかかるものなのかは判断できませんが)すごく男性の性的な欲求の色が強いように感じるんですよね。性欲にどこかしら繋がったものに思えてしまう。やはりどこまでも描かれているのは男性の欲望なのだな、と。それが嫌だというわけでは決してないのですが、いち映画好きとしては欲望なら欲望でもっとその多様な面が描かれる様を見たいなと思うわけです。でもって、映画界での女性の担う仕事の量が増えれば、確実に多様性は広がる。そういう意味で、手始めにハリウッドでこれからどんな変化が起こってゆくのか、そもそも変化は起こるのか、といったところに注目していきたいなと思います。

 

 

 

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クリストファー・ノーラン 曖昧になる真偽と正義

 今回はクリストファー・ノーラン監督の映画『メメント 』『インセプション 』『ダークナイト 』について思うことを書いていきます。上記3作品を観ていることを前提に書いていますし、ネタバレには全く配慮しておりませんのでご注意。

 

◆『メメントメビウスの輪の囚人

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 『メメント』は10分しか記憶のもたない主人公レナードが、妻を殺害した犯人を探すクライム・サスペンス・・・と思わせておいてアレでしたね。あのラストはアイディアの圧倒的な勝利を見た気がしてとても興奮しました。

 『メメント』に私がどうしようもなく惹かれるのは、私が大好きなテーマを嗅ぎ取ったからです。「お前の世界の在り方を決めるのはお前自身だ」というテーマ。これはウォシャウスキー姉弟の映画にも深く根付いています。

 どういうことかと言うと、『マトリックス』の表現を借りれば「青いカプセル(真実からの逃避、無知でいることの幸福)を選ぶか、赤いカプセル(真実への到達、智を知るが故の痛苦)を選ぶか」ということです。青を選ぶか赤を選ぶかは己の手に委ねられている。どちらを選ぶかは、あなたがそのどちらを望んでいるのかに因るのです。

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 ところで赤いカプセルで目覚めるというのは、聖書のイヴを想起させますね。知恵の実(赤いカプセル)を食べることで己の姿(真実)に気が回るようになり、創造主(支配者)の怒りを買って楽園(夢の世界)を追放される、という。

 さて、『マトリックス』でネオたちは赤のカプセルを選び現実の世界を知りますが、『メメント』の主人公が選んだのは青のカプセルでした。物語として健常なのは普通に考えて『マトリックス』の方です。自分を支配していた世界への反逆、そして自ら新しく世界を切り開いていく・・・王道ストーリーですね。

 一方『メメント』のレナードは、自責の念から逃れたいという一心で妻を殺した犯人を探し続ける無限ループに陥っています。物語というのは本来進行するほどに世界が開けていくものですが、この映画ではレナードの世界が時間の経過とともにどんどん開ける(=犯人へ近付く)ように思わせておいて、ラストで「むしろ彼の行動は内へ内へと閉じてゆく行為だった」と明かしてくるんです。

 この結末に私が感じるのは、本来望ましい健常な結末に背を向けることへの背徳感。現実からの逃避という甘い誘惑です。『マトリックス』のネオのように、誰もが赤のカプセルを選べるわけではありません。私などは矮小で弱い人間なのでむしろ青のカプセル、現状の打破よりも現状の維持を選んでしまうと思います。だってどう考えたってそちらの方が楽ですし。ですが、王道ストーリーというのは大概そういう怠惰を許しません。大衆はヒーローを求めますし、もっと単純な話、そうしないと物語が進まないからです。それが普通だからこそ、王道のプロットを踏襲しつつ最後にそれを全部ひっくり返したノーラン監督の手法が話題になり、多くの人が考察せずにはいられなくなったのでしょう。

 

 ◆『インセプション』うつつは夢、夜の夢こそまこと

 『インセプション』の主人公コブと『メメント』のレナードに共通するのは、「王道ストーリーの主人公の皮を被った逸脱者」であることです。彼らは自分の目的達成のために危険な橋を渡り、戦闘を辛くもくぐり抜け、他人の思惑に翻弄されながらも前へ進む。けれど映画の最後に、それが彼らの頭の中という狭い狭い箱庭で行われていたお遊戯だったと我々は知ります(コブはそこのところ曖昧ですが、ここではそういうことにしてください)。彼らは頭の中でひたすらシーシュポスの岩運びに耽っているのですね。それも自ら望んで、です。

 ここから自分語り的なものを含みますが、レナードのループ作業とコブの頭の中でのお遊戯って、考えれば考えるほど普段私がTVゲームをするのと同じ感覚なんだろうなって思うんです。ゲーム機を起動して、コントローラー握って、パーティーメンバー選んでさあ冒険だ、という一連の作業を、コブは自分の頭の中だけでやりきっている。それから、「ずっとこの世界観に浸っていたい」と思うゲームで2週目を始める行為なんかまんまレナードと同じなんです。それに気づいて、ちょっと胸を抉られる心地になったんですね。レナードとコブを見てると「これ、私のことじゃん!」ってなる。

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 ループもの作品の解説本をいくつか読めば、どの本でもループものに我々が惹かれる理由を論じていることがわかります。そしてその中でもおおよそ共通して語られているのが、「ループは現状の維持であり、停滞であり、安息でもある」ということ。生まれた時からずっと不況の中で育ってきた若者は将来に希望がないから前に進みたくない。成長するより現状維持を望む傾向にある。だからループの中で停滞する話に惹かれるのだ、と。だいたいこういう感じですね。勿論、ループものを好む人が全てこれに該当するわけではないと論じられている方々も注釈を付けています。

 ですが、少なくとも私は「痛いところを突かれたな」という気持ちになりました。不況が関係あるかはわかりませんが、例えば中学校から高校、高校から大学・・・という風に社会的な段階を踏んでいくこと、その過程で住み慣れた場所を離れ新しい環境へ置かれること。これらは私にとって楽しみであると共に恐怖でもありましたから。ループものというのは、確かにこういった恐怖に寄り添う一面もあるのだと思います。

 こういう現実逃避系主人公の映画を2つも撮ったクリストファー・ノーランという男は一体・・・という話になるんですが、ノーラン兄弟って父がイギリス人、母がアメリカ人ということもあって、幼い頃はイギリスとアメリカを行き来していたらしいんですよね(wiki参照)。推測でしかありませんが、彼らは幼いうちから両国を行き来するなかで、自分の居場所はどこなのだろうと考えたりしたのではないでしょうか。また『ダークナイト ライジング』の特典映像で弟のジョナサン・ノーランが「小さい頃兄貴にバットマンのコミックスをもらって云々」と言っていたので、兄弟二人でコミックを読んで紛らわせた種々の感情があったのではないかと思うのです。そう考えると、まことに勝手ながら少しこの監督に親近感が湧いたり・・・。

 

◆『ダークナイト』寄る辺なき正義の行方

 それでは最後に『ダークナイト』について。同じく哲学的ではありますが、前の2作品とは雰囲気のガラリと変わる作品ですね。

 この作品については語りたいことが多すぎるので、的を一つに絞って感想を書いていきます。私が劇中で面白いなと思ったのは、ジョーカーが社会学的実験と称して囚人を乗せた船と一般市民を乗せた船に爆弾を仕掛け、先に爆弾のスイッチを押した方の船を助けると持ちかけるシーン。この持ちかけの巧妙なところは、一般市民と囚人のどちらが先にスイッチを押そうと、これをきっかけにゴッサムが無秩序な争いに飲み込まれるであろうという点です。

 一般市民側の船では押すか押さないかの多数決投票が行われ(民主主義のテンプレすぎてちょっと笑いました)、結果スイッチを押すという意見が多数を占めます。しかし結局、「囚人など死んで当然だ」と豪語していた過激オヤジですらスイッチを押せませんでした。もう一方の船でも、スイッチは1人の囚人の手によって海へ捨てられます。両者が互いの命を尊重しあうことで全員が助かるという、寓意の潜んでいそうなシーンです。

 ではその寓意は何か考えます。まず両者の対立図は「社会的強者と社会的弱者」の対立構図であると考えていいでしょう。一般市民側から見れば相手は受刑者、つまり脅威です。逆に囚人側から見れば相手は犯罪者である自分たちを下に見ていて、自分たちの命も軽んじているはずだ、という意識があるでしょう。そんな両者が手を取り合ったのは、どちらの側もバットマンの掲げる正義の形に同調意識を持っていたから。バットマンは人殺しは絶対にしないのです。

 ジョーカーの言っている「社会学的実験」の内容は、いわゆる「囚人のジレンマ」に近いものです。しかし『ダークナイト』では、自分の船とは別の、もう一方の船に乗っている不在の他者に対する想像力を働かせた両者がその帰結を拒んでジレンマから抜け出すのです。自分の行いは正しいか、それは誰かを傷つけるものではないか?と考え続けることこそが、ノーランがこの船のシーンに含ませた寓意であったのだと思います。

 しかし一方で、このバットマンが掲げる正義というのも多くの問題とジレンマを抱えているように思えます。マスクの下のブルース・ウェインは、幼い頃の恐怖の対象であったコウモリと、それを恐怖したことが間接的に両親の死に繋がってしまったというトラウマを持っているのです。単純に正体を知られないためではなく、幼い頃のトラウマを克服するために恐怖の対象であるコウモリの衣装に身を包む。そんな彼の行為はどこか歪さを感じさせます。

 『ダークナイト』関連の考察では散々出尽くした感はありますが、ジョーカーという巨悪はバットマンがいるからこそ成り立つんですよね。光あるところに影はできるからこそ、バットマンの登場したゴッサムにジョーカーは存在する。それは言い方を変えれば、光なきところには影もまたできない、従ってバットマンがいなければそもそもジョーカーは存在を許されないということ。光と闇の関係のように、正義と悪は鏡像的関係にあるのです。 

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 また『ダークナイト』はアメリカ同時多発テロと絡めて語られることが多い作品です。テロの起きた2001年当時、私はまだ小学3~4年生だったので、あのテロが世界でどういった意味を持つのかいまいち理解していませんでした。大学に入った頃にようやく事件を振り返り、ブッシュ大統領ビン・ラディン一族の癒着やイラク戦争の真実を知り(その多くは『華氏911』から学びました)、それからアメリカ映画を観る目も変わっていったのを覚えています。

 テロが起きてから、それまで「アメリカこそが正義」的なものが多かったアメリカの大作映画の中に、少しずつその正義を疑う作品が出てきました。上でも書きましたが、映画というのは大衆娯楽ですので、時代によって移り変わる大衆の意識をどんどん反映させていくものです。そんな中で「正義と悪の鏡像的関係」を描いた『ダークナイト』が爆発的にヒットしたのには、やはり面白いという以外にも理由があったのでしょう。自国の正義を国民が信じて開戦したイラク戦争がどのように終わったか。政府側の主張する大量破壊兵器など見つからずじまいでしたね。アメリカの振りかざした正義は、一体アメリカに、イラクに、世界に、何を残したのでしょうか。自分たちの信じた正義が誰のためにもならなかった、それどころか自分たちこそ悪ではないのかと知ったアメリカ国民の意識には、どのような変化があったのでしょう。

“悪よりはむしろ、正義こそがトラウマ的なものであるという主張は、『9.11』後の世界においてはこのうえなくリアルに響く。それは正義と悪の鏡像的な関係と相まって、正義の追及がいつの間にか悪と見分けがつかなくなるという点にまで及ぶ。”

 ・・・と、『ユリイカ』平成24年8月号にて斎藤環氏が述べているように、バットマンが掲げる正義とはトラウマ的体験を受けて復讐という正義をかざした結果、鏡像的に己の行為こそが悪を生み出すものであると気付く、まさに穴だらけの正義でもあったわけです。このメッセージがアメリカ国民にどう響いたか。その答えは、『ダークナイト』の本国でのヒットが示していると思います。

 

 ・・・とりあえず3作品、思うところを語ってみました。クリストファー・ノーラン作品の魅力は、映画というフィクションの中に現実へ置き換えて考えられる様々な要素をふんだんに含ませている点にあると思います。『ダークナイト』続編の『ダークナイト ライジング』でジョーカーとの対決の行方が描かれることはありませんでしたが、この作品の映像特典にてモーガン・フリーマンが“クリストファーの脚本は独創的だ。過去の作品と同じことは繰り返さない”とコメントしている通り、実はこの『ダークナイト』トリロジーはどれもテーマが違うんですよね。きちんと分散させている、と言いますか。逆に言えば『メメント』と『インセプション』の帰結が似通っているのは、このテーマがノーランにとって重要か示しているとも考えられます。ただ、全く同じテーマはもう扱わないのかな、という気はするので、そこのところ新作『インターステラー』はどうなるのか、今から楽しみです。

 

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Fate/EXTRA CCC 感想

 「Fate/EXTRA CCC」、鯖4人の個別ルートとCCCルートをようやく全部やりきったので思いっきりネタバレをしつつ感想書き散らしていきます。

 

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 去年PS vita TVを手に入れたんですが、特にやりたいゲームあるわけでもなかったな~と適当にPSストアでソフト物色してたらFate/stay night [Realta Nua]があって、フェイトって有名だよな~いい機会だしいっちょやってみっか!というノリで始めるに至りました。そして大ハマリ。今度vitaでFDのFate/hollow ataraxia も出ますね。OPがufotableさんということで期待大です。

 それからレアルタヌアは、ホロウ発売に先駆け廉価版(Fate/stay night [Realta Nua] PlayStation Vita the Best )が出るみたいです。

 

 私が好きになったキャラが桜ちゃんとギルガメッシュで、考察サイトとか支部とか色々見てたんですが、その中で「フェイト/エクストラ CCC というゲームがあり、なんとギルガメッシュが主人公側につくらしい。そして桜ちゃんが話の中心らしい」という情報を得て、やらねばならぬと思ったわけです。ですがどうやらCCCは続きモノで、前作をやっていないと話について行けないっぽい・・・というのもなんとなくわかったので、早速vita経由でフェイト/エクストラ DL購入して始めました。

 

【EXTRA感想】

 そんなわけで、CCCをやりたいがために始めたEXTRAは正直ちゃっちゃと終わらせたいとか思ってたんですが、stay nightとは違って舞台が月とSF度マシマシな上、アーチャーの人間時代の話なんかが見れちゃったりしてなんだかんだ時間をかけて楽しみました。赤セイバーは奏者奏者言ってて可愛いし、キャスターの紙装甲具合には絶望しながらも一番「共に戦場を駆けた仲間感」感じちゃったり。あとランサーの兄貴が大好きなので初見の3回戦では迷わず凛ちゃん陣営を助けたのにランサーはランサーだった。

 それからラスボス眼鏡ですけど、マジで話長くて白目剥きましたね。でもCV東地さんなので頑張って全部聞きました。内容はあまり覚えてません。セイヴァー登場時にはヴァwwwセイ“ヴァ”ーwwwwwwwとひとしきり笑いつつ「これ勝てるの?」と普通に絶望してました。

 

【CCC感想】

 そんなこんなで鯖3人ぶんクリアしたし・・・と満を持してCCCを始めました。初回は慣れ親しんだ赤セイバーで。また言いますけど私があまりにも桜ちゃん好きなため、プロローグの予選で倒れた桜ちゃん助けるとこで既に雰囲気に負けて泣いてました。白い。桜ちゃん白い。

 

自鯖ギルガメッシュ

 うわーついに自鯖にギルが!と感動しながら始めると、「信頼できない」と言われて感心してたり、「校舎内では姿を隠せ」と言われて見直してたり、ギルは自分の予想を超える行動をする相手に弱いんだなと。そういえばチェスの時に「自分は俯瞰して物事を見れるから云々(うろ覚え)」って言ってるし、相手の行動や思考が読めてしまうから基本人間には飽きてて、それ故に自分の見極めに反する意外性を見せられると「愉しい、面白い」ってなるのかなと思いました。迷宮8FでBBに交渉を持ちかけられるイベントとかそれの最たるもので、契約を切らないと宣言した白野ちゃんに向けた顔を見た時は「あ、こいつ今惚れたな」と確信しましたね。実際その後から目に見えて優しくなるという。

 一番好きなギルのセリフは、無垢心理領域後から戦闘終了時に言う「おい、怪我はないな」です。すんごいぶっきらぼうですけど、あの英雄王が人の心配した・・・という衝撃。若干照れくさそうなのがまた。それから売店の言峰、自鯖がギルの時だけセリフが変わりますが、終盤の方でギルに「お前がそんなに面倒見が良かったとは意外だ」と漏らしてたのが印象に残ってます。

 

◆個別エンド◆

 各鯖の個別エンド、最初見た時は単純にみんな「幸せになってよかったね」と思ってたんですが、よくよく考えたらEXTRAの時はどの鯖も聖杯にかける願いが無かったですよね?だからラストでは白野ちゃんの願いだけが叶えられてああいう結果になった。

 ということはCCCの個別エンドって、月の裏側での諸々を通して更に親密度の上がった各鯖が聖杯にかける願いを見つけて、それが実現された結果ああいう終わり方になった…ということでいいんですよね?だから白野ちゃんの願いというより各鯖の欲求の現れたエンディングになったと。それぞれの「自分と一緒に人生を歩んでほしい」という欲求の発露のカタチですよねきっと。

 そう考えるとやっぱりギルのエンディング凄まじいなと思います。ギルは裁定者で、人類の行く末を見届けるのが自分の在り方だって言ってたのに、それを蹴って白野ちゃんのための未来を望むわけじゃないですか。人類の裁定より白野ちゃん一人のための未来を取るんですよ。それって、この男にしては最大級の求愛行動なんじゃ・・・と思うと本当に床を転がりたくなります。

 

◆SG◆

 印象に残った自鯖のSGについて。まずアーチャーさんですけど、SG2で振舞う料理が中華というところでニヤニヤしました。stay nightで士郎が得意なのは和食で、中華は凛ちゃんの領分だったはず。なのでこう、凛ちゃんに教えてもらったのかな・・・と思うと、はい。それからSG3ですが、自分をジェイムス・ボンドに例えるのは本当にどうかしていると思いました。ボンドは女性の気持ちを見抜いて先回り行動するスキルEXですよ?お前のそれはEマイナスだろう。

 そしてギルガメッシュ。SG2は普通に泣かされた。小説版Zeroでは、最期を迎えるエルキドゥが泣いていて、それに対してギルが「なぜ泣くのか」と問うんですが、CCCではむしろギルが泣いてましたよね?つまり二人とも泣いてたってことで・・・余計つらいじゃないですか。

 ついでに言うと選択肢で「もしかして、ギルって人間大好き?」を選んだ時の英雄王の反応は必死過ぎて正直可愛いです。

 SG3でギルは霊草を蛇に奪われたのを笑い飛ばしたと言ってましたけど、『ギルガメシュ叙事詩』ではその場面、“ギルガメッシュは霊草を蛇に食べられたのに気付いて坐って泣いた”って記述してあるんですよね。地面に座り込んで泣いてしまっている・・・だというのに笑い飛ばしたとホラを吹く・・・また見栄を張りやがって。そして図書室で叙事詩を読破した白野ちゃんはそのことを知っているハズなのに突っ込まないんですよね。なんて気遣いのできるマスターなのか。

 

◆CCCルート◆

 CCCルートでの鯖との別れに凄まじく涙腺を刺激されました。赤セイバーほんとにやばかったです。ていうかみんなやばかったですけど。アーチャーは「別れを長引かせるのはよくないんだが」の辺りでやられました。ギルは問答がとてもよかったです。あんなに絆を深めたというのに友でないならなんなのか・・・と悶々としてたので、そこの答えがもらえて私もサッパリしました。ギルも答えに満足気でしたが、あの後また虚数の海で眠るんだなと思うと・・・。キャス弧は俺の涙を返せ。

 そして桜ちゃんです。stay nightの桜ちゃんとは別物ですが、どちらの彼女も好きです。stay nightで私が彼女を好きな理由が「あのメンタルキチ○イなメンツの中で一番等身大の人間である」ということ。だから彼女の人並みの弱さやズルさ、そういうものに共感できるし、愛おしく思うのです。そこはCCCの桜ちゃんも同じ・・・とうかより天使度が増しててメロメロになりました。幸せになってほしいなあ。

 

◆ハーウェイ陣営◆

 本編始動直後は前作で敵だったキャラが仲間につくということでワクワクしっぱなしでした。敵だった時は脅威だったのに仲間にするとみんなの面白いとこがザクザク出てきて面白い。ブリテンの騎士の体はマッシュポテトとすりおろした人参でできてるんですかね?ガウェインと騎士王のやりとりは楽しいんだろうなあ・・・と思わせる話が沢山出てきて笑いました。

 ハーウェイ陣営で一番嬉しかったのが前作でお友達になったユリウス。Fateの三大劇物指定食物は麻婆豆腐とエリザの料理、ハーウェイカレーということでよろしいでしょうか。

 CCCでは犬空間での彼の活躍で泣きました。校庭で「お……おかえり」って言ってくれるのとかも最高に可愛かった。そういえば前作での初登場シーンで「葛木宗一郎だ」とか言われて爆笑したなんてこともありました。葛木先生いつの間にそんなV系に・・・って。

 

 そんなこんなで、とても面白くプレイできました。まだまだ語り足りない萌えがありますが、それは支部とかでぼちぼち吐き出していこうと思います。

 

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『ブレイキング・バッド』感想 そして王者は自らの手で幕を下ろす

 『ブレイキング・バッド』、huluにてシーズン5まで完走しました。興奮が冷めないうちに感想を書きなぐっていきます。

 まずは軽く紹介。この海外ドラマは『ウォーキング・デッド』の制作局、AMCが贈る完全オリジナルドラマです。全5シーズン。本国アメリカでは圧倒的な人気の高さを誇り、史上最高評価を受けたドラマとしてギネス認定されたほか、エミー賞ゴールデングローブ賞で累計49部門ノミネート・12部門受賞という実績があります。もう伝説というか、怪物級のドラマです。

 あらすじ:メキシコ州中央部にある街アルバカーキで、化学教師ウォルター・ホワイトは見た目通りの冴えない人生を送っていた。冗談が下手くそで生徒には尊敬されず、それは家族が相手でも同じこと。惨めな人生を送っていたウォルターだったが、ある日肺ガンで余命わずかと宣告されてしまう。残り少ない時間で家族に金を残したいと思い立った彼は裏社会でハイゼンベルグと名乗り、麻薬製造に手を染めてゆく―――。

 

 このドラマ、最初見始めた時は「華がないなあ」とか失礼なこと思ってたんですけど、そんなの面白いストーリーの前では本当に小さなことでした。それにキービジュアルが白ブリーフで荒野につっ立ってるオッサンじゃなかったら、興味をそそられず見ることもしなかったかも。

 シーズン1を何気なく見始めた夜、あまりにも続きが気になって結局徹夜で全エピソード(といっても海外ドラマにしては全7話と短め)視聴してしまいました。正直自分がこんな地味なオッサンばっかのドラマにハマるなんて思ってなかった。

  ウォルター役のブライアン・クランストンはこのドラマで一躍有名になり、主演を張った舞台『オール・ザ・ウェイ』でブロードウェイの興行記録を塗り替えたそうです。また、最近日本でも公開されたローランド・エメリッヒ監督の『ゴジラ』にも出演しているみたいです。これまで注目されていなかった彼が、この年になって人気者に・・・と、アメリカン・ドリームの体現者になったんですね。これからも名俳優として色んな作品で活躍するのだと思います。

 

※ここからはネタバレを多々含みます

 

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 このドラマの魅力は沢山ありますが、まずはなんといっても主人公ウォルター。家族といる時は余命わずかの悲劇の父だけれど、裏社会ではコワモテのオッサン達に科学の力でハッタリをかます喜劇の麻薬王ハイゼンベルグ。ウォルターという男は、悲劇の主人公と喜劇の主人公、その両方の顔を持っているのです。表社会の人はハイゼンベルグを知らないし、裏社会の人は地味な化学教師ウォルターを知らない。この狭間で重ねられてゆくブラックユーモアの数々を、彼の正体を唯一正確に知っている私たち視聴者がニマニマしながら楽しむという贅沢な構図です。

 

 次に魅力的なのは裏社会のマフィアたち。みなさんとても個性的です。

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 まず初めにウォルターの脅威となったのはトゥコ・サラマンカ。あのキレっぷりは怖いやら面白いやら。

 ちなみにトゥコの親父はシーズン4まで登場します。ベルをディン!ディン!と鳴らしまくるアクション、すごく強烈でした。

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それから謎の双子マフィア。常に無表情、かつ無口・・・と不気味な存在。いまだにあのほふく前進の意味がわからない。

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 そしてシーズン2後半で登場する最強の敵、ガス・フリング。ファストフード店を経営し、社会貢献事業にも惜しみなく投資する誠実な実業家・・・というのは表の顔。裏では大規模な麻薬密売の元締めをしています。常に冷酷な判断を下しウォルターを脅かしますが、それでいて自宅に招いて手作り料理を振舞ったりと、これまた何を考えているのかわからない人物。そんな彼の目的は、シーズン4で語られる彼の過去で明らかになります。ガスはただ一つの目的のために動いていたのですね。その目的を叶えるために損得以外一切の感情を排して行動してきており、それが彼の強みとなっていました。同時に、この〈感情を排して行動する〉というのはガスの生存の条件でもあります。彼は実際、そうすることでこれまで生き延びてきたのです。だから目的が叶う目前で冷静さを欠いた時こそ、彼は退場することになるんですね。トゥーフェイスばりの派手な散り様、最高でした。

 しかし、しかしです。我々を熱狂させた最強の敵ガス・フリングが去ってしまった後、物語はどの方向に進めばいいのでしょう?どうすれば面白さを損なわずに最終回を迎えられるのか?

 シーズン5で明かされたその答えは、とても理に適ったもの。物語の中で主人公を苦しめた最大の敵が去った時、主人公こそが物語の登場人物全員の敵になるのです。

 かの名優アンソニー・ホプキンスもこのドラマの虜になり、たった2週間で全5シーズンを完走してしまったそうで。それだけではなく、感激のあまりウォルター役のブライアン・クランストンにファンレターを出したそう。その内容は以下の通り。

 

ブラックコメディとして始まり、やがて血と破壊と地獄の迷宮へと下っていく。まるで偉大なジャコビアン時代のシェークスピア劇や、ギリシャ悲劇のようだ(元記事:http://eiga.com/news/20131017/5/

 

 ジャコビアン時代というのはイギリスのジェームズⅠ世統治下の時代のことで、この時シェークスピアは『テンペスト』『リア王』『マクベス』等を書き上げています。またギリシャ悲劇とは、運命に逆らい、また流される者が主題。回を追うごとに敵が強力になり、それと比例してウォルターが関わる仕事も危機も規模が大きくなる。いったん動き出した運命の歯車はもう誰にも止められず、ただただ皆死に絶えるまで悲劇が連鎖し終わりの時を待つのみなのです。まさにギリシャ悲劇。アンソニー・ホプキンスレベルになると例えからして洗練されてますね。

 

 そして最後に。これが一番痺れるなあと思ったのが、裏社会でのウォルターの相棒、ジェシー・ピンクマンの存在です。彼はハイスクールを中退し、麻薬をさばいて暮らすジャンキー。ラッパーかよと思うくらいYO!を連発します。麻薬をさばくために必要な存在でありながらその激情型で甘ちゃんな性格によってウォルターを何度も怒らせ窮地に陥れますが、ウォルターはどんなにジェシーに呆れかえろうとも、ジェシーより優秀な相棒を用意されようとも、決して彼を手放さないのです。その為には手段も選ばず、回を追うごとにその異常性は増していきます。

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 最初、ウォルターは自分の息子と同じ年頃のジェシーを息子に重ねていたため見捨てられないのだと思っていました。と言うか、確実にそれもあったのだと思います。ですが、シーズン5最終話の妻のスカイラーとの会話で

「スカイラー、私のしたことは全て・・・」

「聞かなくてもわかる。どうせまた、家族のためだったと言うんでしょ」

「自分のためにやった。好きでやったんだ。私には才能があった。それに心から実感できた。生きていると」

 ・・・というやりとりがあったことで、少し見方が変わりました。今まで散々「全ては家族のためにやったこと」と言い続けてきたウォルターが、最後に「生きていると実感できるからやったんだ」と認めたのです。確かに麻薬製造を始める前のウォルターの人生は色彩を欠いたものでした。生の実感を得られないまま凡人として人生を終える――自分には才能があるのに――そんなのは嫌だと、彼は心の奥底でずっと思っていた。その鬱屈した思いが、非日常を知ったことで解消されていったのです。

 この、非日常に足を踏み入れることになったそもそものきっかけ。それがジェシー・ピンクマンです。ウォルターにとって、彼は〈非日常の象徴〉なのですね。彼にとっての非日常は生を実感するためのもの。いつしか生きる目的にすらなっていたのでしょう。だから、彼はジェシーだけは手放せない。それはそのまま、また凡庸な人生に戻ることを意味しているのだから。

 ・・・というのを上記で抜粋したウォルターとスカイラーの会話から思いついてしまい、その後の展開はぞわぞわしっぱなしでした。最終話でウォルターはみんなに別れの挨拶をして回りますが、その終着点は誰だったか。誰を開放したか。その意味するところを考えると、何とも言えない、言葉で形容できない気持ちになります。ただただ、その余韻に圧倒されるしかないのです。

 いや、ホント見ごたえあるドラマでした。しばらくこの余韻に浸っていようと思います。

 ちなみにこのドラマ、私はhuluで視聴しましたが、後はU-NEXT、それからスーパー!ドラマTVでも今のところ見られるようです。TSUTAYAとゲオはシーズン3までレンタル可能な模様。円盤はシーズン1~3が8月6日、シーズン4が9月3日、シーズン5が10月3日に順次発売されます。Amazonだと、シーズン1のBDボックスは50%オフになってます。参考までに。

 

 

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【ネタバレ】映画『マレフィセント』考察―“真実の愛”への意趣返し―

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 7月15日、『マレフィセント』を観てきました。予告の印象から『アナと雪の女王』に近いテーマを扱うのだろう・・・とは思っていたのですが、より大人向けにチューニングアップされたものになっているため(あくまで私個人としては)アナ雪以上に見ごたえのある作品になっていることに驚かされました。

 と言っても、この映画のストーリーのみをそのまま受け止めれば「悪役とされてきたマレフィセントを主役に据え、あんなにワルになったのにはこんな悲しい理由があったんだ」と理由付けをする物語・・・でしかありません。もちろんその作りだけでも十分に面白い映画ではあったと思いますが。

 私は『マレフィセント』を別の側面から見た場合の魅力について、思うところを指摘してみたいと思います。その魅力とは、簡単に言えば“旧来のおとぎ話のセオリーを破壊しにかかっている”ところです。

 これを説明するために、まず「おとぎ話のセオリーとはなんなのか」を述べるところから始めます。『マレフィセント』を読み解くには、このセオリーを理解しておくとより見えてくるものがあると思うのです。

◆以下の説明のためにおとぎ話と魔女―隠された意味を参考にさせていただきました。

 『ヘンゼルとグレーテル』、『オズの魔法使い』、またディズニー映画の原作になっている『人魚姫』、『白雪姫』、『ラプンツェル』・・・これらに共通する存在として、魔女がいます。魔女とは、おとぎ話につきものであり、また(表現がマイルドになっていることも多いですが)例外なく彼女らの悲惨な死によって物語はハッピーエンドで幕を閉じるのです。

 そう、魔女は物語の終わりに死ななければならない存在。ですが、何故彼女らの死が物語の必須条件となっているのでしょうか?

 この問いの答えは、物語の中ではなく、むしろ読み手である私たちの側にこそあります。
 おとぎ話というのは子供の時分に読むもの。そして子供という存在は、まだ人間としての精神の基礎が出来上がっていない状態にあります。精神の基礎とは、ここでは「善と悪の認識」を指します。この認識が未熟な状態である幼い子供は、感覚的になんとなく「よいもの」と「わるいもの」がわかりますが、その境界も定義も最初は曖昧です。
 その曖昧な境界にきっちりと線引きしてくれる存在は何か。それは(現代においては古い考えと言えますが)子供と最も過ごす時間の長い「母親」です。子供にとって母親とは生命を与え、かつ育ててくれるもの―――大いなる善の根源であると言えます。

 ですが母親も、母である前にひとりの人間ですから、当然子供の要求にすべて答えるということはできません。環境によっては、お腹を空かせた子に満足に食べさせてやれないし、ぐずった時に必ずしも仕事を放り出してあやしてやれるわけでもありません。
 そんな母親を見ても、子供というのは母性という幻想にしがみつこうとしてしまうものです。しかし実際に母親の嫌な面を目の当たりにした子供は、当たり前のように現実と理想の乖離に混乱してしまいます。
 その時子供は、頭の中で母を「よい母親」と「悪い母親」に分けてしまうことで、この混乱を解消しようとします。アルコール中毒の母を持つ被虐待児が、「お酒を飲んでいない時のママは優しくていいママだけど、お酒を飲むと怖いママになるんだ」・・・などと言う展開、小説やドラマによくあると思うのですが、これがわかりやすい例でしょうか。
 この分離された母親の人格は、子供の人格形成にも影響していきます。「優しいママ」を自分の善、「怖いママ」を自分の悪として内面化し、自己意識を変質させていくのです。良い母の振る舞いは自己の肯定的な振る舞いに、悪い母の振る舞いは悪い自己の行いに、というふうに。

 そして、この時に意義を持つものこそ、おとぎ話なのです。

 おとぎ話における魔女とは、上記の「良い母親」と「悪い母親」のうち読み手──精神的に成長途中である子供にとっての「悪い母親」の具現、もっと言えば、悪を悪と認識するための教材的役割を担っているのです。子どもの頃、みなさんもおとぎ話の意地悪で醜い魔女とその死に様を見て「こんな風にはなりたくない」と己の行動を省みたり、または大人からそのように諭されたりということがあったのではないでしょうか。このようにして幼い時分、私たちは悪を悪として認識し、そうならないように努めるのです。
 こういったゆえんで、おとぎ話において子供は己の善を主人公に重ね、己の悪の具現である魔女を倒すのです。このことが、自分の中から悪を閉め出し、善へと舵を切ることにつながるわけです。それが普遍的なおとぎ話の教訓と言えます。
 それ故に、己の悪の部分である魔女は滅ぼされねばならないのです。そうしなければハッピーエンドは訪れません。

 ・・・・・・というのが、おとぎ話に広く該当するセオリーです。

 これをもとに映画『マレフィセント』の物語を考えていきます。

 

 

 この映画は、前記に代表されるような「おとぎ話のセオリー」をいくつもの面で破壊していく話です。これから、それを三つに分けて説明してみたいと思います。

①魔女的な存在であるマレフィセントは、オーロラ姫に呪いをかける悪(悪い母親)の側面と、彼女を見守り育てる善(良い母親)の側面の両方を兼ね備えていました。
 おとぎ話において分離されることが必須な、母親の善と悪を分離させなかった。このことから、ディズニーは子供の善と悪の観念に踏み込もうとしていることがわかります。
 ディズニーがやりたかったのは、おそらくこれまでのおとぎ話に委託されて語られることで人格をなくした「母親」という存在の統合だったのだと思います。母親は願望を叶える万能の存在ではなく、善も悪も内包する一人の人間であるのだということを、子供達に教えようとしたのです。

②オーロラ姫について。映画を観た人はみんな、終盤で王子様のキスを受けた姫が目覚めなかったことに驚いたのではないでしょうか。私はすごく驚きました。
 だって、『アナと雪の女王』(観てない人にはネタバレになります、すみません)においてすら、アナはクリストフ(=王子)のキスを、エルサの命と自分の命を秤にかけた結果選ばないという決断をしたのです。なので、状況次第(たとえばエルサに命の危機が訪れなかったとしたら)では、アナとクリストフがキスしてアナの魔法が解けることもあったかもしれない、と考える余地がありました。これは王子様願望のある男の子への最小限の配慮だと思ったんですが、オーロラ姫はキスしたのに目覚めない。もう『マレフィセント』は、『アナと雪の女王』以上に完璧に白馬の王子様を否定しているのです。

 もともと、童話『眠りの森の美女』の初期原典(のひとつ)である『日と月とターリア』(作ジャンバティスタ・バジーレ)は、こんこんと眠る姫に一目惚れした王子が姫の純潔を奪い、姫は眠ったまま妊娠して9ヶ月後に双子の赤ちゃんを産む・・・という話です。この話に改変が重ねられ、強姦のマイルドな表現として「キス」という形に落ちついたのですね。これがロマンチックの代名詞と言っても過言ではない、王子様のキスの正体です。

 そういうことを踏まえて、『マレフィセント』におけるオーロラ姫と王子様のキスの場面を思い出してみると、ちょっと所感も変わってくるんじゃないでしょうか。無防備に、抵抗もできず、ただ眠っている女性に一度面識があるだけの男性がキスをする。昔だったら罪に問われなかったかもしれませんが、現代ではそれは立派な犯罪ですよ、王子様。

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 とにかく王子様のキスに関して、オーロラ姫には拒否する権利がないんです。しかも、そのキスで絶対目覚めなくてはならない。姫には受け入れるという選択肢しかない。まるで呪いのようなロマンスの法則です。

 これは私の私見ですが、そもそも一目惚れとは美への愛であって、その人の人格へ向けられた愛ではありません。美貌だけを愛されたオーロラ姫が王子の手を取っていれば、美への執着の結果、病んだように鏡に話しかける『白雪姫』の継母のような運命をたどった可能性もあるのです。
 ディズニーは「拒否権のないキス」「一目惚れを真実の愛にカウントすること」のふたつにノーを突きつけ、「王子の愛を受け入れないお姫様」を創造したのですね。

 

 また、①と②を複合的に考えると、『マレフィセント』は観る側の立場によって受け取るメッセージが変わってくるであろうことも面白い点だと思います。マレフィセント目線(=母親的立場)の人が観れば、「四六時中良い母親でなければならない」という強迫観念を取り除き、自分の中の悪すら肯定してくれる救済の物語ですし、オーロラ姫目線(=子供)の人が観れば白馬の王子様幻想の否定と、あなたには愛する者を選ぶ権利があるんだ、という現代的な示唆がなされているのです。

③最後は、ステファン王について。

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彼はマレフィセントを己の出世欲のために利用し裏切る『アナと雪の女王』のハンス王子みたいな人です。しかし彼には、よりリアルな人間の感情が丁寧に付与されているなと感じました。彼は自分の行為に対する報復(娘への呪い)を受けたことで、精神的に病んでしまうのです。
 マレフィセントの翼を奪う際に一瞬ためらっていることで、彼がマレフィセントへ心を寄せていたことが真実であるとわかります。かつて愛したものを裏切った。このことはステファン王の心に影を落としていたことでしょう。擁護する気はありませんが、彼は非情な選択をしながらも自らは非情な心に染まりきれなかったのです。
 そこに決定打を打ち込んだのがマレフィセントによる呪いで、彼は自分の罪から逃れたいと思ったすえに精神を病み、マレフィセントを打ち倒すことが生きる目的になった結果、妻はもとよりオーロラ姫への愛も失っています。妻を看取ることもせず、ただ己の強迫観念に取り付かれて娘を遠ざけ、かつ戻ってきた娘との再会シーンは親しみも何もあったものではない。なんと崩壊した家庭であることでしょう。旧来のディズニー映画とは違う、苦難から逃げおおせた主人公を暖かく迎える両親の不在。このことから、ステファン王の役割は血のつながりという意味での親子愛神話の否定なのだと思います。

 オーロラ姫を愛してくれるはずの父親は心を暗黒に支配されていて姫のことは眼中にないし、王子も見た目にしか惚れてないのでダメ。そもそも本来のおとぎ話の目的として、子供が自分と存在を重ね合わせるべき「善」であるオーロラ姫は眠っていて行動不能。

 完全に手詰まり、必勝存在である善の不在です。ならば姫を目覚めさせる真実の愛は、善は、どこに見出せばよいのでしょう?

 

 その答えになる存在が、マレフィセントだったのですね。
 血のつながりはあっても自分を愛してくれない父親でも、自分の見目にのみ惚れた王子でもなく、自分を愛してくれ、また自分も愛したマレフィセントこそが、オーロラ姫の呪いを解く存在でした。彼女はマレフィセントの悪も善も受け入れ、愛を贈るのです。

 冒頭でマレフィセントが自分に親はいないと言ったことと、オーロラ姫が途中まで自分に両親はいないと思い込んでいたこと。そして愛に裏切られたマレフィセントがオーロラ姫に「真実の愛でなければ解けない呪い」を与えたことは、マレフィセントとオーロラ姫が鏡合わせの存在であることを示しています。愛に裏切られたマレフィセントもまた、真実の愛でなければ解けない呪いにかけられていたのですから。
 そんな愛などないと思うからこそかけた呪いであったのに、結果的にその呪いは自分が解くことになってしまった。この時オーロラ姫だけでなく、マレフィセント自身も救われていたのですね。
 その時こそ、かつて愛に裏切られ翼(=自由)を奪われたマレフィセントも、オーロラ姫の尽力によって再び翼を取り戻す、という物語構造になっているのです。

 以上が、私の考察です。
 大雑把にまとめると、『マレフィセント』という映画でディズニーがやりたかったことは
①母性神話 ②白馬の王子様 ③血のつながりによる親子愛神話
この三つの否定だったのだろう、ということです。

③について補足すると、実はおとぎ話のもう一つのセオリーとして親殺しは御法度、というのがあります。実の親が悪の役割を担うのは読み手にとって生々しすぎるという配慮からのものです。しかし、この映画では血の繋がりによる親子愛というものを否定しているので、ステファン王のあの結末もありなんだろうなと思います。むしろよくやったな、とすら思いました。

 

 私がこの映画で感動したのは、上に挙げた三つの要素をあのディズニーが発信した、ということです。『アナと雪の女王』を観た時も、あの大きな路線変更に驚かされました。なにせ、現代におけるおとぎ話の発信者、それも世界規模の影響力を持つディズニーが“愛の多様性と自己の統一”をテーマとして打ち出したことはそのまま、彼ら自身が囚われているおとぎ話の呪いを解こうとしていることと同義だからです。
 彼らは分離された自己の善と悪という問題を、悪を打ち倒すことで解決するのではなく、悪の部分を受け入れ折り合いをつけることで解決しようと言っているのですね。大人はみんな、自分が良いだけの人間ではないことを知っていますから、このメッセージは誰もが受け入れやすいものなのではないかと思います。

 ただ、マレフィセントを悪の権化として描かなかった代わりに、この映画では新たな悪が作り出されたことも事実です。それはもちろんステファン王のことなのですが、マレフィセントの悪以外の面を描くために、彼がこの映画での悪役となってしまいました。悪役を悪として描かない物語の話だったはずなのに、こうして新たな悪が、それも旧来の魔女のように救いようのない悲惨な死を遂げる。新たな犠牲の誕生です。善を描こうとしても、その中間を描こうとしても、このように必ずつまはじきにされる悪のキャラクターが出現してしまう。これは打破できない円環構造なのかもしれません。ですが、マレフィセントをこのように描いた以上、ディズニーには新たに創造されてしまったステファン王のような悪にもスポットライトを当てる義務が生じたと思います。どれくらい先になるかはわかりませんが、時代が移ればこの問題に答えが出る時が来るのでしょう。

 最後に、ディズニーの変化をリアルタイムで目撃しているということに、私は感動せずにはいられませんでした、と言っておきたいと思います。本当に素晴らしい、語りがいのある映画なので、色んな人が観て、色んな感想を持ってくれることを願います。私も、色んな人の感想を見て柔軟に思考していけたらと思っています。

 

 

 

Maleficent

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